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魚津知克(京都大学)



 死の歴史を考古学的に見出していこうとすると、墓の在り方(墓制)の変遷の追究が中心となるだろう。もちろん、墓制の変遷だけではなく葬送儀礼の在り方(葬制)の変遷を包括的に捉えなくては、死の歴史を十分に語ることはできない。だがどうしても、考古学的資料は行為の帰結する場(この場合遺体や副葬品が最終的に落ち着く墓)にだけ残る傾向があるので、多くの場合墓の研究に終始しなくてはならないのが実状である。逆にいえば、埋葬遺構である墓自体は検出できても、葬送儀礼の内容を(儀礼の有無も含めて)復元するのは容易ではない。

 この点もふまえつつ、日本列島における墓制の変遷を簡単にみていく。旧石器時代の墓ははっきりしないが、縄文時代になると明らかに墓地と認識できる遺構が出現する。近年の調査では、装身具を中心に豊富な副葬品を持つ縄文時代の墓が見つかっている。つづく弥生時代に入ると、溝で区画される墓(周溝墓)、明確な墳丘を持つ墓(墳丘墓)が各地で出現する。そして、中国や朝鮮半島からの舶載品を副葬する墓が現れる。支配者階層の墓が最も厚葬となるのが古墳時代である。巨大な墳丘に埴輪が立て並べられ、鏡・装身具・武器・農工具などが大量に副葬される前方後円墳などの古墳が九州から東北までの地域で見られるのである。この厚葬志向は、仏教思想の受容も含む6世紀後半から7世紀にかけての大きな社会変動を経て急激に途絶えていく。以後は、火葬と土葬との地域的・時期的な偏差が墓制の大きな要素となりつつ推移し、現代に至るのである。

 今回のシンポジウムでの議論からは、死は単一のものではなく、「わたしの死」「愛着のある人の死」「他人の死」の3つの異なる位相のものから成り立っていることが窺われる。佐倉・内堀の両氏が指摘される通り、人類は進化のある時点で「愛着のある人の死」を痛切に認識したゆえに、埋葬行為を行い遺体を丁寧に処置したのだろう。そして、社会が体系化していく過程で、一人の人間の死は単にその人に格別の愛着を持っている人だけのものではなくなり、その死を社会のなかに位置づけようとする人々のものにもなってゆく。「他人の死」の発生である。社会のなかに位置づけられた死が社会的に位置づけられた生と表裏一体のものであるのは言うまでもない。社会のなかに位置付けられた生/死は支配者階層の厚葬にもつながるし、いけにえや殉葬にもつながる。

 「わたしの死」を考古学的に追求するのは難しい。だが、「わたしの死」は「わたしの世界の所有」の観念と密接に関わっているとの内堀氏の指摘を踏まえるならば、例えば各時代の物質文化に個人的・社会的な認知体系がどのように反映されているのかを追求することができるならば、ある程度の接近が可能のようにもおもえる。この過程で、人類学と考古学との真摯な相互交流あるいは相互批判は大きな意義をもつであろう。





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