コメント3:関係を開くトーテミズム、鎖すインセス
小馬 徹(神奈川大学)



はじめに
 「近親性交とその禁忌」というシンポジウムのテーマは、「近親婚の-」ではない点で、自然人類学と社会人類学・文化人類学とを架橋する人類学という総合的なディシプリンを前提にするうえで適切なものであり、且つ魅力的である。

 しかしながら、それによって「二つの人類学」の間の溝が現実にうまく埋められたかと言えば、残念ながら話はまた別である。フロアから(市川光雄)の発言の通り、社会人類学・文化人類学側が経験的・実証的なレヴェルで議論するのでなければ、自然人類学側と議論がうまくかみ合わない。この意味で、このシンポジウムのテーマも「近親性交とその忌避」であるべきだったかも知れない。あるいは「近親性交とその忌避・禁忌」としたうえで、あえて忌避と禁忌の間にあるものに議論を集中すべきだったと思う。

 オーガナイザー(川田順造)の「禁忌という、単なる禁止でなく、忌まわしいもの、不吉なもの、災厄をもたらす源をそこにもたらす源をそこにみる考え方」を議論するという問題提起は、率直に言えば、既に社会人類学・文化人類学の側に大きく偏っている。構成主義的で且つ射程が一層大きな社会人類学・文化人類学の側が、本質主義的な自然人類学の側に歩み寄るべきではなかったか。

1.カバン語としての婚姻と性交
 この意味で、青木健一報告「鳥類と哺乳類における兄妹交配の理論的側面」は、両者を同じ土俵で論じようとする姿勢が鮮明で印象深かった。兄妹交配による近親弱勢(inbreeding depression)は、早い時期からmatingを始めて繁殖率を高められるという利点によって補償される。この点では、鳥類も人間を含む哺乳類も同じであることを、青木はローマ帝国支配期のエジプトにおける同母兄弟姉妹婚を例として示した。そして、低い確率で兄妹交配を行うことが進化に適合的であるとすれば、本能によってのみならず、法律によってもインセストを禁止する意味があることになる、と結論付けた。

 青木が、ウェスターマークやフレーザーという、初期の社会(文化)人類学者たちの仮説にも言及して総合的な検討を行った事実には、頭が下がる思いがする。ただし、フロア(高原由紀夫)からは、近親交配(inbreeding)と近親外交配(outbreeding)のどちらが繁殖上有利かは状況次第であって、最適化近親交配(optimal inbreeding)が現在の最もエレガントな仮説であるという、重要な指摘がなされた。またレヴィーストロースは、早い時期の論文("The Family", 1956)で、障害者の生存が難しかった時代には、近親交配は有害な弱勢因子を排除すると共に強勢因子を濃縮することになるので繁殖戦略としてはむしろ有利でさえあること、だから近親交配の禁忌がそれにもかかわらず普遍的に制度化されている事実を繁殖戦略では説明できないことを指摘していた。

 さらに、婚姻(結婚)にしろ、marriageにしろ、あるいはmariageにしろ、それらの語がどんな内容でも放り込める「カバン語」でしかないという議論は、ポストモダンやポストコロニアル以前の段階で、既に社会人類学の内部で行われている。ローマ帝国支配期のエジプトの同母兄弟姉妹婚の場合も、その「婚姻」が具体的にどのような権利と義務の束を意味したのか、また他の婚姻形態とどのような関係にあったのかなど、次々に疑問が頭をもたげて来るのを禁じ得なかった。

 加えて、青木が論じたのは近親婚であって、婚姻と区別された近親性交ではない。この点の区別が重要である。それについての実証的な資料としては、英国では(第一)イトコとの結婚が近親婚に準じた扱いを受ける反面、婚前の性的なパートナーとしてイトコが最も望ましいという通念があるという、たった一つの事実を挙げれば事足りるだろう。

2.単系進化はバイアスか?
 綿密な観察記録に基づく山極寿一報告「インセスト回避が決める社会関係」も、人間と霊長類を比較し、繋げて論じようとする姿勢をもっている点をまず評価したい。

 霊長類学は、どちらか一方の性、または双方の性の個体が成熟前に集団を離れて複数移籍を繰り返すmate outと、集団に止まりながらも性交を回避するmating avoidanceという二つの現象によって、インセスト回避が図られている事実を明らかにしてきた。人間はこの二つのメカニズムを連動させて規範(インセスト・タブー)化し、それによって親族組織を再生産しつつ維持している、と山極は言う。サルや類人猿はそれらを規範化してはいないものの、インセスト回避のあり方が個体関係に様々な影響を与えている点に注目する必要がある。それゆえにサルのインセスト回避の現象解釈を繁殖戦略に一画化すべきではない。こうした視点から、山極は人間社会とサルや類人猿の社会の比較を試み、近親性交回避から近親性交禁忌へと到る自然史の過程を進化論的に分析した。

 しかしながら、果してボノボはこの単線的な図式に納まるだろうか。むしろ外れると見て、彼らの自然史における位置づけを再考すべきではないか。専ら非専門家の無謀さだけを武器とした小著(『贈り物と交換の文化人類学-人間はどこから来てどこへ行くのか』御茶の水書房、2000年)で、次のように論じてみた。人間がインセスト・タブーを発明して「自/他」を同時に分節し、輪郭の明確な群集団である家族を作り出し、家族相互間の女性の交換(婚姻)を通じて地域共同体を生み出した-レヴィーストロースの連帯理論。人間は、その維持・発展のために自然の性差(sex)を文化ごとに独特の仕方で極大化(gender化)してきた。これとは逆に、ボノボは自然に現に存在している実体的な性別・年齢・血縁による差異を極小化し、きわめて多型的な性(n個の性)を多元的に生きている。ヒューマニティとは差異を生きる宿命の所産だが、ボノボはそれとは逆の関係にあるもう一つの可能性を生きて、それを撃ち、相対化してくれる、と。

 山極を初め、自然人類学側から、完膚なきまでにこの拙い仮説を打ちのめす痛烈な批判が寄せられることを期待して止まない。

3.親族関係とトーテミズム
 二人の文化(社会)人類学者は、いずれもレヴィーストロースを取り上げ、構造主義の立場から立論して報告した。渡辺公三報告「幻想と現実のはざまのインセスト・タブー」は、レヴィーストロースの親族理論がトーテミズム論と同一の地平で統一的に捉えられるべき性格のものであることを、レヴィーストロースの研究の進展の道筋を辿りながら綿密に分析したものである。

 この視点と見解は、出口顯報告「身内をよそ者にするメカニズムとしてのインセスト・タブー」も共有する。出口は、タブー(のあり方)が自他(身内/よそ者)を初めて分節するのであって、逆に既に元からある自他関係がタブー(のあり方)を規定するのではないこと、つまり自他の分節が実体的(本質論的)でないことをまず確認する。その上で、親族の分類法が「血族/婚族」の範囲を直ちに決定する「基本構造」(交差イトコ婚)と、それを直に決定せずに経済・心理などの別の要素の介入に委ねる「複合構造」(並行イトコ婚)との間の違いは、実は分節化の水準の違いに過ぎないことを明晰に論じた。

 水準の異なる複数の分節化が或る個人に二重の焦点を結ぶ場合、一見その個人の集団的な自他(内/外)関係の規定に二律背反を持ち込むように見える。だが、どの社会でも、決して当人が分裂症に陥ることのない二者択一的な論理付けで、パラドックスが解決されている。

 このように、集団の閉鎖性を打開して、ほとんど際限のない自由な人間観を与える思考法。これが担うものがトーテム的分類法においても重要な機能の一つなのであり、親族とトーテミズムを繋ぎ合わせるものなのだ。そのことを、出口は自他関係の二項的対立(象徴的二元論)の「縮約」-つまり、非連続化の「果てし無い細分化」の連鎖-の図式を掲げて具体的に明示した。つまり、その図の「非親族/親族」の二項関係における親族(身内1)はさらに「婚族/親族(身内2)」に縮約できる-これが並行イトコ婚の分節水準-し、この水準での親族(身内2)はさらに「他分節/家族」に分節できる。

 一方、この図式を逆方向に辿ると、相互の他者としての人間と動物は、彼ら両者の「他者」である何者かに対しては「同一者」となる関係が描けるはずだ-つまり、トーテミズムの水準で。そして彼らは、その一つ下(手前)の水準では他者同士である「同一者」として、論理的には婚姻が可能になる。これが、神話や民話の異類婚姻譚の背後にある自他の論理だ。しかし、それは現実生活では「不毛の性」であるがゆえに、獣姦として忌み嫌われることになる。

 さて、出口の図式は、実はさらに身内2を例えば「母・姉妹/自己・父・兄弟(身内3)」に分け、また身内3を「兄弟/父・自己(身内3)」に、身内3を「父/自己(身内4)」に….という具合に、次々に分けて行くことができるはずであろう-ただし、この先にあり得る自己の内的分節は精神分析学的な領域になろうか。すると、ここには近親婚を超えて、「不毛の性」である同性愛的な関係が透けてほの見えてくる。人間は、出口が示したような自他関係の二項的対立の連鎖の中央に位置する辺りの部分、つまり不毛でない性の領域、しかもそのうちの近親婚姻を除外した生殖としての性のみを婚姻として合法化して管理し、社会の組織化と維持に利用してきたのだといえる。

 以上から明らかなのは-再び振出に戻ってしまうのだが-動物の近親交配回避が繁殖戦略という実体的・本質論的な次元のものであるのに対して、人間の近親交配禁忌は表象次元のものだということである。山極はサルや霊長類でもインセスト回避のあり方が個体関係に様々な影響を与えていると指摘したが、この意味では、その程度は微々たるものに思えてしまう。それは、レヴィーストロースの連帯理論が言うように、人間では、家族集団間を女性の交換(婚姻の成立)と逆方向に財貨が送り出され(経済の成立)、その双方向にメッセージが行き交い(言語の成立)、その結果言語によって人間が動物の環境拘束性を脱して、両者の生存条件に決定的な隔たりができてしまったからである。

4.「清浄/汚穢」なるボノボ
 最後に、オーガナイザーの問題提起に戻って、もう一度触れておきたい。川田は、「近親性交が穢れた行為として忌避される一方で、始祖神話には母子、兄妹などの近親性交がしばしば語られている」事実を指摘し、その「穢視/聖化の両極性をどう考えるべきか」と問うた。私は、端的に次のように答えたい。そうした者は、或る集団を成立させている根源的な規則を侵犯し、人々に衝撃を与える。それは秩序を乱すことだが、穢れとは秩序の混乱の感覚の表象である-単純すぎる例だが、衣服に着いたジャムを想起して欲しい。だが、その者の行為はその秩序を写す鏡となり、それを意識化させ、再確認させるのであり、この意味で彼(彼女)は「聖なる者」となる。そして、その者は、制度の始源に置き直され、始祖として表象されるのだ。それゆえに、「聖なる者」の理論を生んだのはヨーロッパだが、語源であるラテン語のsacerが両義的で、「清浄/汚穢」のどちらも意味するのは偶然ではない。

 さて、掉尾にこう述べて、私のコメントを締め括りたい。トーテミズムは無限に自由とも言える人間観へと関係を開放するが、インセストはかつてヒューマニティを構造化した源初の共同体的な人間観を常に喚起させる。しかし、レヴィーストロースが前掲論文で家族の存在を必要悪と名指し、あるいは永い人間の旅の途中下車に譬えた通り、家族は人間が存在するうえで永遠に必然の前提ではあり得ないだろう。

 既に工業化を経て、人間は個人も生きていける条件を獲得した。今や欧米では、周知の通り、家族の紐帯は既に随分と緩やかなものになっている。例えば、オランダや北欧諸国に続いて、ドイツでも今年の8月1日から「生涯のパートナー法」が施行され、同性愛者の結婚が法的に承認された。近親性交はともかくとして、少なくとも同性愛者が「不毛の性」として「穢視/聖化」されたのは、もはや昔語りになろうとしていると言ってもいいかも知れない。

 人間は自然の性(sex)をずっと強化してきた社会・文化の性(gender)のあり方を見直して、n個の性へと方向を修正し始めたと言えようか。実は、それはボノボがずっと以前から実現していた性のあり方だった。ヒューマニティとは一体何か。この根源的な問は、もう一度この事実を正しく認識し、そこに立ち返って見直さなければならない。



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