あの世はあるのか,ないのか
梶田真章(法然院貫主)



 今日は死ということがテーマで、いろんな角度から死が論じられてきたわけでございますけれども、私の話は当然何百万年前の話とか何万年前の話とかではなく、たかだか二千数百年前ぐらいからのお話でございます。現在、死ぬということを新聞とかで見ますと「永眠いたしました」という言葉が新聞上では一番流行っているわけです。この「永く眠る」ということは従来の伝統的な死ぬという用語とは違っているのではないかと思っておりますが、今はとにかくそれが一番人気があります。我々がお葬式に行って、一応「南無阿弥陀仏」ってお葬式させていただくんですけども、その後で大体御出棺の時におっしゃる御遺族の挨拶は「天国に行く」とかあるいは「草葉の陰」とかいうお話でして、あまり「極楽」とかいう言葉は御遺族から出てこないわけです。

 「永眠」あるいは「天国」、その言葉が今は人気がありますが、もともと日本では「往生」とかあるいは「入寂」、……往生は文字通り「往き生まれる」わけですからどこかに往って生まれるわけでして、あるいは入寂という「寂」は悟りの世界のことですから、悟りの世界に「入る」というのが入寂という言葉ですし、また、天に昇る「昇天」というのもキリスト教にはございますし、もっとも一般的には「他界」するという言葉が使われたんではないかと思います。

 それが何故今「永く眠る」という言葉になっているのか、それぞれにお考えいただきたいわけですけれども、それと並行してあの世を表す言葉も「天国」が今はお子さんにも人気があるようですが、もともと日本の伝統では「冥途(冥土)」です。冥土の「冥」は冥い(=暗い)という漢字ですので何か暗いところへ行くんじゃないかというイメージ……。あるいは「浄土」仏様の清らかな世界……、浄土っていうのは仏の世界と言う意味ですけれどもいっぱい仏さんがいらっしゃるなかで、阿弥陀仏の世界のことを「極楽」というように仏教語としては申してまいりました。

 しかし、先ほどからのお話でも極楽という言葉は今はどういうイメージで使われているかというと、決して阿弥陀仏の浄土というイメージではなくて、とにかくこの世よりもなんか他のしげな所、つまり英語でいう「paradise」なんでしょうか、そういう場所として使われております。ところが仏教語としての阿弥陀仏の浄土は、つまり極楽のことは英語で「pure land」と普通言うわけで、決して「paradise」ではありません。ですから、ピュアな国……、ピュアっていうのはどういうことかといいますと、要するに極楽と言う場所は普通におっしゃってるような楽しい、この世で出来なかったことが何となく出来る、……この世でゴルフし足りなかった方は向こうへ行ってゴルフをするとか、あるいはこの世で叶わなかった夢が叶う場所……。そのようなのが阿弥陀仏の浄土すなわち極楽ではなくて、あくまでも仏教語としての極楽はそこで仏様にならしていただける場所、と、そういう意味でございます。つまり悟りの世界……、この世で仏(ほとけ)になれないので阿弥陀仏の浄土に一旦往生させていただいてそこで成仏させていただく、悟らせていただく。つまり極楽って言う世界は決してゴルフをしに行くためにあるんじゃなくて、悟るために行くというのが仏教としての極楽の意味でございます。迷いの世界の中で悟れない人間が仏の悟りの世界に行かせていただいてそこで悟らせていただくというのが「極楽往生」ということの仏教としての意味ではないかと思います。

 日本人のあの世のイメージは仏教が説いてまいりました超越的な世界、この世ならざる所、仏の世界、……例えば極楽という世界は、西方十万億の仏の国を過ぎたところに世界があって名づけて極楽という。西の方に十万億の仏国土、仏様の浄土、それを過ぎたところに阿弥陀仏の浄土があると、こういうようにお経の中では語られてまいりました。日本人のあの世のイメージにはそればかりではなく「草葉の陰」などという言葉もございますし、あるいは我々がお盆に何故大文字山に火を燈すのかということを考えますと、これは決して西方浄土へ送るというよりは、つまりその方が生まれ育ってらっしゃった場所、その生活してらっしゃったところに近い山にその霊は鎮まっていくのであると。あるいは海辺の村ですと、鐘楼流しなどに代表されますように海の方に他界はあるんだと。つまり「この世」の地続きのところに「あの世」があると。「この世」の中にいわば「あの世」があるというようなイメージを従来日本人は持ってきたのではないかと思います。そういうことと対極的に仏教が、「この世」の中に「あの世」があるんじゃなくって全く違うところに、我々の預かり知らないところに浄土はあるんだと、そこで我々は仏にならしていただくんだと、こういうことを一方で説いてきたという歴史があるかと思います。

 そういうことを踏まえさせていただいて、二千数百年前まで、すなわちインドでお釈迦様が出られました頃までさかのぼらせていただきます。紀元前の5世紀から4世紀にかけてインドで釈迦なる方がおいでになった。そしてその方が悟りを開かれた。このお釈迦様が仏教を開く前提となりましたのがインド人の間で当時広がっておりました輪廻思想というものでございます。

 六道輪廻、生き物はぐるぐるぐるぐると生き死にを繰り返していくんだという考え方は別にお釈迦様が考えられたわけではなく、インド人の間で当時ポピュラーになっていた……。紀元前の7世紀とか6世紀、お釈迦様が出られる100年とか200年前にはっきりとしたそういう形を取って、それ以後インド人の心の中で普通に信じられるようになった。この六道輪廻思想、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天、という6つの世界を生き死にを繰り返していく。その生き物の生存状態のことを漢字では「有(う)」という言葉で表し、生有・本有・死有・中有というふうに周4つの有を繰り返していく。「生有」というのが生まれる瞬間、そして「本有」というのが一生涯、「死有」が死ぬ瞬間、そして次にどこかの世界に生まれるまでの間を「中有」、あるいは普通「中陰」という言葉で表しておりますが、この世での命を終えてあの世の生を受けるまでの状態を中有・中陰と申しまして、これが最長49日間あるとように普通インド人は考えた。49日たつとどこかに生まれる場所が決まる。この世の行いによって次にどこにうまれるのかが決まっていく。その六道の中に地獄道があり、餓鬼道があり、畜生道があり、阿修羅道があり、人間道があり、天道がある。よく仏教はあの世について地獄か極楽かということを説くんだというように言われますが、それは間違いでございます。つまり、まだ六道をぐるぐる廻っていくのから極楽へ生まれる、特に阿弥陀仏とご縁のあった方はもう六道をぐるぐる廻らないで極楽へ往生するんだと、これが私の考えますように、正しい仏教思想理解だと思います。つまり地獄か極楽かというように二者択一ではなくって、まだ六道をぐるぐる廻っていくのか極楽へ往生するのか、これが正しいあの世への往き方、というかあの世のイメージであろうと私は思っております。

 日本人は死者のことを「ホトケ」と普通呼んでまいりました。誰でも死んだら、ホトケと。このホトケはここで書きましたカタカナのホトケでございます、いわば。漢字の「佛(ブツ)」という言葉は目が覚めた方、心の目が覚めた人、悟りを開いた人、というのがブッダというサンスクリット語からきた「佛」という漢字で表されている言葉であります。

 したがって、日本人がずっと死者をホトケと呼んできた、そしてそのホトケの先にご先祖様というのがございます。死者は当初ホトケなんだけれども、死者が生者によって弔われることによってご先祖様になる。それが普通三十三回忌と考えられている。三十三回忌まで生者が死者を弔うと三十三回忌をもってそのホトケはご先祖様になられる。

 ところが日本人の従来の信仰心、……これは決して仏教そのものではなくて先祖崇拝を教といたします「先祖教」という宗教でございますが、この先祖教が室町時代中頃から顕著になり、ずっと江戸時代になって定着して、ほぼ高度経済成長期まで日本人の宗教心を形作ってまいりました。こういう先祖教においては生者が死者を弔うことによって、死者すなわち最初はホトケですが、それが三十三回忌まで弔われることによってご先祖様になられる。ところがそのご先祖様になったけれども、それはなりっぱなしではなくてまた何代かするとその家に生まれ変わってくると。人は生き、そしてホトケになりご先祖様になり、また人として生まれてくると。「あの人はだれそれの生まれ変わり」という言い方がございますが、そういうような中に少し断片が残っておりますように、つまりご先祖様になったらそれはなりっぱなしではなくてまた何代かするとその家に生まれてくると。こういう日本人の普通の宗教心、高度経済成長までの一般的な宗教心、それと別個に日本には仏教という宗教が伝統的にあったと、こういうように考えたほうがわかりやすいと思います。

 そういう先祖教に協力してきた仏教のことを普通「葬式仏教」というように申しております。この仏教というのは決して現代になって葬式仏教になったわけではなく、室町時代からずっと基本的に日本の仏教は葬式仏教だったと思います。これが先祖教という宗教心を持っている日本人にとってはきわめて有効な宗教であって、つまり仏教の儀式を借りて先祖教を信仰してきた。日本人の先祖教は決してだれが高開祖であるということもなく日本人の間で室町時代以降、つまり農業生産が飛躍的に拡大して家が続いていくようになって、そういう社会の中から何となく自然発生的に信仰されるようになった、それを先祖教というように民俗学者は名づけていると思いますが、こういう先祖教の流れと別個に仏教そのものの流れも並行してきたんではないかと思います。

 ですから日本人の中で、死んだら六道をぐるぐる行くんだとか、あるいは地獄へ行くんだとかそういう考え方とともに、先程申しましたホトケになってご先祖様になると、こういうような気持ちもずっと長く並行してあったんではないかと思います。どちらかといえば普通は、ホトケになってご先祖様になるというほうが強かったんではなかろうかと思います。お寺に行くと何となく地獄とか極楽とかを説かれて、そういうイメージもあの世には少なからず持ってこられたとは思いますが、一般的だったのは決して極楽……、仏教が説く極楽、西方、西の方の遠い遠い世界、ではなくって「あの世」は「この世」の中に地続きのところにあるというイメージできたんではないかと思います。

 その一つの証拠は、お墓参りのときに墓へ行って水を手向けるわけですけれども、なんで水を手向けるかというと要は生きていた空間、故郷を死者が忘れないようにするためであると、そのようにいわれております。特に産湯を使った水を死者に手向けるのが、その死者が故郷をいつまでも忘れず生者を見守りながら、また生者に弔われてご先祖様になっていくとされています。ですから日本人にとっての故郷とは何であったかといいますと、結局は、死者と生者が一緒に暮らしているという意識を持てる空間、これを日本人は長く故郷と呼んでまいりました。決して、山とか海とか川とか田んぼとかそういう風景を故郷という言葉はイメージしているのではなく、生きてる人間と死んだ人間がいっしょに暮らしてる場所。交流を持ちながら暮らしていると意識できる場所、それが日本人にとっての故郷というもんだったと思います。これが先程申しましたように、高度経済成長によって壊されてしまいました。一緒に親と子供が住むことは稀になりましたし、その同じ家の人間が同じ場所で一生暮らして、その近くに死者の霊がいて生きてる人間をいつも見守っているということが、高度経済成長以降は普通には信じられなくなったわけでございます。高度経済成長によって日本人の故郷は喪失したと申せるのではないかと思います。

 それが日本人の今までの「あの世」と「この世」の関係であったと思いますけれども、振り返って今日は法然院でせっかく聞いていただきますので、ご承知だと思いますが仏教のことを少し申させていただきます。仏教というのは、要するに「わたし」などというものはないんだと二千数百年前に釈迦という方が悟られた、これが仏教という宗教であると思います。つまり釈迦は何を悟ったかというと「縁起」ということをお悟りになりました。一言でいうと縁起という法……、法というのを真理といたしますと、縁起というこの世をつかさどっている真理を釈迦という方は悟られました。縁起というのは、すべての存在は因縁によって生じているのであって何物も独立して、いかなる存在も他とは無関係には存在できない、万物は現象として存在しているが実体としては存在していない、その時その時のわたしがいるのであって、赤ん坊のときのわたしと今のわたしは同じわたしではなく全く違うわたしでもない、一瞬前のわたしと今のわたしも全く違いもしないけど全く同じではないと。こういうことを「空」あるいは「無自性」、もの・ことが常に同一性を保ち続け、それ自身で存在するという本体、もしくは独立し孤立している実体――、こういう自性というのはないと仏教は考えてきたと思います。ですから変わらない魂などというのを仏教では認めません。魂という言葉でイメージされる何かわたしの中で不変の「我」というようなものはないのであって、常にその時その時の「わたし」。あるいは今現在のわたしであっても、皆様方お一人お一人にとってのわたしはある意味で違うわたしであると。誰かにとっての「わたし」と誰かにとっての「わたし」は違うのであるというように……。つまり、わたしなるものに変わらない実体を認めないというのが仏教という宗教というか、お釈迦様の悟りの一番の特徴だと思います。

 ですから、仏教においては神が何かを創造したということもございません。それぞれがお互いに支えあって存在しているだけだというのしかございません。縁起でございますので、始めに何かがあって何かを全部造りましたというようなことはございません。お互いがお互いを支えあっているだけであって、わたしが存在しているということは常に他者の存在が前提となっているということであると思います。

 ですからこの世があるのかないのか……。この世のわたし自身の存在が実体としてはないというわけですから、現象としてはあるが実体としてはないというようなことになります。今申し上げましたことは般若心経では「色即是空」といわれていることですが、――「色」(物質的存在には)「即ち是れ空」(実体がない)と、現象としてはあるが実体はない。しかし「色即是空」だけじゃなく般若心経は逆の「空即是色」も説いております。実体がないからこそ物質的に存在できるといっております。つまり、それぞれの存在にわたしなる実体がないので、それぞれの存在が今のようなあり方で存在できてるのだというのがこの世をつかさどっている真理ではないかと、その時その時の存在しかないのではないかと。

 そういうことを釈迦という方は二千数百年前におっしゃったと私は受け止めさせていただいておりますので、先程の内堀先生のお話ですと、「わたしというものがどんどん差異化しておりまして結局わたしというものにこだわるという気持ちが、私なりに申しますと非常に強くなってくるということにおいて、それぞれの人間がわたしの死というものをよりこだわって考えざるを得なくなっている」ということのようでございますけれども、もともと仏教ではこだわるなということしか教えておりません。「わたし」がないんだから「わたし」にもこだわらないし、「わたし」のものなどというのはどこにもない。「わたし」のものと思っているものは、「わたし」がなければそんなものはどこにもないはずですので、ただ「わたし」があると思っているから「わたし」のものがどこかにあるという理屈になるんだと思います。「わたし」があれば「わたし」の愛するものと「わたし」がどっちでもいいものができて、当然愛するものには執着していくわけでございます。ですから本来的に「無我」、我などというのはないのである、「諸法無我」という言葉を仏教では申します。諸々の法、……法というのは真理という意味もございますし、その真理がブッダ(悟られた方)の口をついてでますと、それが「教え」という意味にもなりますし、またこの世の我々一つ一つの存在が縁起の法によってこういう形で存在させられているんだとすれば、我々一個一個の存在も法と呼んでもよろしいと。このように仏教は考えてまいりました。ですから諸法無我というときの法は我々一個一個の存在という意味でございまして、諸々の存在には我という実体はないというのが仏教の旗印の一つになっております。

 そういう中で今日の最終的テーマは、「あの世はあるのか、ないのか」ということでございますけれども、インド人が輪廻思想を考えたときは、当然「この世」というのは「あの世」の一つだと考えたのでございましょう。前世があってこの今の世があるわけでございますので、当然この今の世が前世からいいますとあの世なのでございまして、そういう意味でこの世があるといえばあの世があるということになるのでございましょう。そういう輪廻という考え方、これが唯一、唯一といってもいいと思いますが東洋では倫理道徳をつかさどってきた思想なのであります。良いことをしたら良い報いがあって、悪いことをしたら悪い報いがありますよと。この世で悪いことをした人間はこの世ではそう大した処罰を受けなくっても、あの世でそれの報いが待っているんだと。このような六道輪廻というものを信じていたということが、おそらく東洋人の倫理道徳に大きな影響を与えていたと思いますけれども、これが近代以降だんだん信じられなくなってまいったようでございます。

 あの世はあるのか、ないのか。あの世はないというように考えるほうが、ある人によっては科学的だとおっしゃったりいたします。でも、科学というのはやはりこの世の我々が知っている範囲内のことをあるのかないのかと吟味できる学問であって、「あの世があるのか、ないのか」、あの世のことは科学でも証明も出来ないし否定も出来ないというように私は思っております。そういう意味で、あの世があると思うのも宗教的にですが信心なら、あの世がないと思うのも信心一つだとなろうかと思います。

 昔の方、昔というのはいろいろいえますが、例えば法然上人だったら法然上人、800年前当時の方は当然、神仏の存在というのは自明のことであって、法然上人がともかく阿弥陀仏を信ぜよとおっしゃったのは他の仏様や神様を信じないで阿弥陀仏を信じよという意味であったと思います。それが、日本では明治時代以降いろいろと神仏の存在が自明のことではなくなってまいりました。そういう中で、いったい神仏の存在とは何なのかということを明治以降の哲学者の方がお考えになってきたと思います。代表的なのが清沢満之という日本で最初の宗教哲学者といわれている方ですが、この方が神仏の存在は主観的事実だとおっしゃいました。わたしにとってそれが事実かということでございますから、わたしが結局あの世はあると思うか、ないと思うかだけである。当たり前のことのようですが、そういうことではないかと私も思います。あの世があると思いたいか思いたくないかということでございましょう。

 仏教という宗教は非常にメニューの豊富な宗教でございまして、極楽に往生しましょうという仏教があるかと思えば、決してそんなことを言わない、すべて空であるからあの世・極楽などというのはないのであるという仏教も当然あるのでございます。ですから仏教一つとりましてもあの世というのをあると思うかないと思うか幅の広さがございまして、自由でございます。要は、その方の思い、主観であるかと思います。

 法然上人が800年前に、「往生は一定と思えば一定、不定と思えば不定なり」という言葉をおっしゃっておられます。これは徒然草を書かれた兼行法師によっても非常に賞賛された言葉でございますけれども、往生は出来ると思ったら出来る、出来ないと思ったら出来ない。わたしが出来ると思うか出来ないと思うか、極楽往生したいのかしたくないのか、それ一つであるというようなことでございます。「あの世はあるのか、ないのか」それぞれお一人お一人でお考えくださいますようにお願いを申し上げます。つまり、あると思いたい人生なのかないと思いたい人生なのか、それはご自身が生きていかれる道、それこそ出会われる命とのご縁によって変わっていくことであろうと思いますので、今どう思ってらっしゃるかということとまた将来どう思われるかということも違うのではないかというように思っております。





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