コメント2
澤田昌人(京都精華大学)



 まず最初にお詫び申し上げます。私はコメンテーターとしてここにいるはずなのですが,今までの発表者のお話があまりにも興味深くてその内容に感心しながらメモをとり続けてしまい,結局コメントの内容を練りあげることができませんでした。ですからお話をうかがっているあいだに思い浮かんだことを,2つだけご紹介して私のコメントとさせていただきたいと思います。

 私は10年以上前から中部アフリカのコンゴ民主共和国(1997年まではザイール共和国といいました)の熱帯雨林にすんでいるエフェ・ピグミーと呼ばれる人々を対象に,その死生観を調べてきました。先ほど内堀さんがイバンでもそうだとおっしゃったように,エフェも死んだら生きていたときとおなじ生活をするということになっています。死者たちがすんでいる村には,イヌもいるしニワトリもいるということになっています。イバンのほうは,死んだら生きているときよりはちょっといい生活らしいですけれど,エフェの場合は昔の,いわゆる伝統的な生活に戻るそうです。生きているあいだは半ズボンやシャツを着ていますが,死んだら樹皮布で作ったふんどしをはくそうです。そういう死者は森の奥にすんでいるということになっています。死後に住む世界というのは,生前の世界の物理的延長線上にあるのであって,非常にかけ離れた別世界に住むということではありません。ですからときどき森のなかで,見覚えのある死者とばったり出くわすこともあります。このように死後に生前とおなじ生活をするということは,エフェやイバンだけではなくて世界中のあちこちで同様の報告があります。ですからこのような死生観というのは,人類の歴史のなかでずいぶん古くからあったのではないかと考えました。

 二つ目として,死後にたいする考え方の違いによって,実は生前の生き方に大きな違いがでてくるのではないかと思いました。エフェは死んだら,自分より先に死んでしまった人たちとまた出会うということ,そこで生前とおなじ生活をともにするということを確信しています。エフェが伝統的生活に固執するということは,別に進歩を盲目的に拒絶しているのだというより,死後に先祖たちとおなじ生活をしたいからこそ現在の生活をなるべく変えないでおこうとしているのだと,私は考えます。エフェのように死んでもこの世の森の奥で生前とおなじ生活をする場合と,キリスト教信者のように死んだら超越的な神のところへ,すなわちこの世から離れたところへ行く場合と,生前の生き方に大きな違いがでてくるのではないか,というのが私の考えです。エフェは生活様式,そしてそれを支える森林をみずからが急速に破壊してしまった場合,死後に生活するところを失ってしまいます。これに反して,死後にこの世と縁が切れてしまう人の場合,そしてこの世に生まれ変わるということがないキリスト教のような場合,生前の生活環境を急速に変化させたり破壊してしまっても,個人の救いに関してはまったく関係がありません。エフェには森を破壊してはまずいという,死生観に裏打ちされた歯止めがありますが,キリスト教徒には死生観に裏打ちされた歯止めはありません。結局環境問題は,長期的あるいは短期的なコストの増大であるとかいった現世的な理由に帰着してしまいます。それでも,環境を破壊しつくした個人であっても破壊されたこの世をあとにして,神のところへ行ってしまえばそれでおしまいでしょう。死後の世界のイメージをどう考えるかは,生前の世界でどう生きていくかということに密接に関係しているのだと考えました。以上です。ご静聴ありがとうございました。





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