問題提起
川田順造(広島市立大学・国際学部)

 進化人類学の大先達今西錦司先生は、生物の最も根源的な欲求は何かという私の質問に対して、言下に、「パーペチュエイションやね」と言われた。これは至言だと私は思う。「個体としても、種としても、少しでも先へ生存を延ばすこと」を出発点として、だがヒトは文化によって、「個」およびその主体的に意識されたものとしての「自己」の範囲を、「種」の内側にも外側にも、さまざまな度合いで設定する。家族、イエ、血縁集団、郷土、民族、国家、等。そしてそのパーペチュエイションのために、個のパーペチュエイションをすすんで犠牲にし、集団はそれを顕彰する。だが同時に、これも文化の所為で、元来「個」と「種」が永らえるための本能に発していたと思われる、「食」と「性」の欲望の満足を、個と種の持続には貢献しない快楽のために追求する。
 文化に大きく由来すると思われるこの二つのベクトルが交差するところに、近親性交と、その逆の、異種間性交(獣姦など)が生まれるのだろう。そのどちらも、現実には行われ、場合によっては秘やかな享楽としての刺激さえ伴っていながら、集団からは忌まわしいもの、不吉なものとして、罰せられるのではないが「疎まれる」のは、基本的にはそれを否定する根拠は集団にもないままに、だが集団のパーペチュエイションにとっては不毛であるというシラケた認識を、集団は表明するのであろうか。
 だが他面、古橋信孝が注目している奄美のオナリ神起源伝説に語られている、兄が妹と知らずに犯し、妹は兄と知りつつ受け入れた上で自死した兄妹相姦の当事者が、共同体によって神として祀られるというように、近親相姦が「聖化」の契機も含んでいることを、どう考えたらよいのか。
 ヒトの研究にとって根源的な、しかし答えを見いだすことのきわめて難しい問いを投げかけてきた、近親者間の性交とその禁忌をめぐって、人類遺伝学、霊長類学、文化人類学など関連分野における最新の研究成果を持ち寄って討議しようというのが、このシンポジウムを発案した趣旨だ。その発案・企画者として、数多く考えられる問題のうちから、まず以下のような論点を挙げて問題提起としたい。

 
1. 課題:「近親婚」でなく「近親性交」
 「婚」という社会制度的なものに限定しない性関係一般をとりあげたい。近親婚もその一部として、なぜ禁忌とされるのかを問題にする。禁忌という、単なる禁止ではなく、不吉なもの、災厄をもたらす源をそこにみる考え方。行為と表象のレベルの差異と相互関係。近親性交への欲望の次元での強く深い吸引と反発は、近親性交を語る言説の「いかがわしさ」、表象の次元での近親性交の「禍禍(まがまが)しさ」ないしは「忌まわしさ」にも表れていよう。姪(兄の娘)に子を生ませた島崎藤村は、そのことに対する罪の意識を「いかがわしく」描いた『新生』で、亡妻の位牌のある仏壇に触れた姪の掌に訳の分からない血がべっとりと付くという、「まがまがしい」叙述をしている。

2. 視野:近親性交の対極に、異種間性交を置いて考えてみる
「畜(けもの)犯せる罪」は、『延喜式』六月晦の大祓(みなづきつごもりのおほはらへ)祝詞にも、「天つ罪」に対する「国つ罪」として、「おのが母犯せる罪、おのが子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪」につづいて挙げられている。
 獣姦は『旧約聖書』「レビ記」には、同性愛(男性のみ)、月経中の女性との性交、姦淫とならぶ重罪として挙げられている。家畜(驢馬、牛など)との性交は、ブラジル東北地方の砂糖黍農場についてのジルベルト・フレイレの古典的研究書『お屋敷と奴隷小屋』にも記述されており、西アフリカ・旧モシ王国でも、驢馬との性交を目撃された男は、木で首をくくって自殺しなければならず、葬儀は行わないという言い伝えがある。
言語表象のレベルでは、「異類婚姻譚」として分類される説話群があるが、ヒト以外の動物(場合によって植物)との婚姻のあり方、その結末、生まれた子の行く末などは、文化によって著しく異なる。日本では、異類婚姻譚がきわめて豊かであるだけでなく、そこから生まれた子が超能力をもつとされることもある。平安中期の高名な陰陽家で、著書も遺している安倍晴明(921-1005)も、狐を母として生まれたとされており、芸能化されて広く流布している「葛の葉子別れ」伝説の主人公と歴史上実在の人物像との境も定かでない。『古事記』によれば、神武天皇の母(玉依姫)も、父の母(豊玉姫、玉依姫の姉)も、海神の娘で、鰐=鮫とされている。

 
3. 論題A:近親性交の願望=欲求/忌避・災厄、穢視/聖化の両極性をどう考えるべきか
 近親性交が穢れた行為として忌避される一方で、始祖神話には母子、兄妹などの近親性交がしばしば語られている。神武天皇(カムヤマトイハレヒコノミコト)の父、ウガヤフキアヘズノミコトも、母の妹と結婚してカムヤマトイハレヒコノミコトをもうけている。前述のモシ王国草創期の王の一人も、近親相姦(父と娘、兄と妹などの異伝あり)の故に穢れた存在として「己が肉」(ニングネムド)という名をつけられ、墓を別にされている。だが穢れた存在とされながら、そのような者としての「己が肉王」の事跡が、その内容の史実性への顧慮を超え、敢えて王国の歴史伝承のなかで語られ続けてきたということこそ、注目に値する。
 古代エジプトの地母神イシスとその息子であり夫でもある穀精オシリス、メキシコ先住民文化の地母神=穀母テテオインナンの夫である穀神マイクルショチトルショチピーリ(息子のシンテオトルと同一神格)、西アフリカ・バンバラの創世神話における、母の胎盤である大地に雨(精液)を注いで穀物を稔らせる息子のファロなど、母子相姦的性格の強い地母神と穀精のカップルは、洪水神話と結びついた兄妹相姦と同様、世界の始源にかかわる神話に頻繁に登場する。
 その変形と見なしうる、夫の影が薄い、偉大な母と異能児の息子のコンビも、マリアとキリスト、山姥と金太郎など、洋の東西で崇敬を集めている。日本で広く採録されている、兄妹相姦と塞(さえ)の神=道祖神の由来を結びつける伝承も、人間が近親相姦にある種の聖性を付していることを示している。人間集団の起源神話に近親性交が頻出するのは、近親性交というものが、まだ見ぬ始源性への憧憬をこめたノスタルジアの一部をなしているからではないのか。キリスト教における聖母マリアの処女性、イエス・キリストの童貞性へのこだわりは、ピエタ像にも明確に表象されている、イシス/オシリス=大地母神/穀精信仰を基層とする東部地中海古文明の視野で見れば、母子相姦への強い引力の反面として捉えることができるだろう。
 他方、『旧約聖書』(「レビ記」など)は、獣姦(男女どちらに対しても)、男性の同性愛(ソドムの町が焼き滅ぼされる)と並んで、母、姉妹、父方母方双方の伯叔母との性交を死罪に当たるものとし、前記の『延喜式』と同様、男が母と娘の双方と性の交わりを結べば、「三者とも焼き殺される」べきものと定めている(絶対者がくだす厳罰)。エディプス神話が母子相姦から国の災厄を発生させているのは、母子相姦の必然性と、それに対する罰と不吉感の両極性の表明といえようが、直接の近親性交ではないにも関わらず、母と共にその娘と性交することを忌むのは、人間にとって始源的な母・息子の性交がはらむ両極性の、枝分かれした一つの表れではないのか。

4. 論題B:性交・婚姻における自己/他者、近親/族外者、の分節化のあり方が提起する問題
 社会的制約(集団の相対的孤立:僻地の小集落、川船暮らし、等)、社会的動機(父方平行イトコ婚や本家分家婚における、家産の分散防止、等)は、前提条件となりうるのか。社会的自他の分節のさせ方と、分節化された者相互の交換・給付(プレスタシオン)の成り立ちにとって、近親性交・婚姻の禁忌がもつ意味は何か。
 近親性交・婚姻の禁忌の動機をどう意味づけるか(幼時からの同居がもたらしうる負の効果、等)。その結果をどう解釈するか。遺伝子、財、情報の集団間交換の拡大という、レヴィ=ストロースの「社会」に視点を置いた功利的解釈はどこまで妥当か。「意識されない構造」の検証可能性の問題も、構造主義的解釈にとっては生まれる。感情(心理学)レベル、社会関係(社会学)レベルでの、自/他の分節のあり方を考える切り口として、近親性交・婚姻とその禁忌の意味を多面的に問い直したい。




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