コメント1:インセスト・タブーについてのノート
西田 利貞(京都大学大学院理学研究科)

1.はじめに
 人類学におけるインセスト・タブーの起源の問題は、すでに決着済みと思いこんでいた。ところが、文化人類学者だけでなく、生物人類学の青木健一氏さえ、私と異なる意見をおもちなのには驚いた。その意味で、このシンポジウムをオーガナイズされた川田順造先生に感謝したい。ここでは、発表者の御意見と異なる点について、私見を述べたい。なお、インセスト・タブーの起源と進化についての私の考えは、通常の生物人類学者がもっているものと大同小異である。簡単にいうと、近交弱勢(inbreeding depression)を避けさせる遺伝的・文化的傾向をもった個体の方が、より多くの子孫を残した結果であると考える。兄弟姉妹間の性交が起こらない理由として、「幼年時代の身体接触が、青年時に性的嫌悪を引き起こす」というウエスターマークの仮説は、人類学の野外調査から支持されている。アラブ社会では、並行いとこ婚、つまり父親の兄弟の娘(FaBrDa)との結婚が好まれるといわれている。この習慣はウエスターマーク仮説と矛盾するようだが、実際にはこのタイプの結婚は全体の20%にすぎず、しかもこういった型の結婚では子供の数が少なく、また離婚に至る割合が他の結婚型の4倍もあるとのことである(McCabe 1983)。他の例は、拙著『人間性はどこから来たか』(京都大学学術出版会、1999)に詳細を記したので、ここでは繰り返さない。
2.人間の「やらない」ことを、法律は禁止しないか?
 青木氏は、フレーザーの発言、「人間がやらないことを、法律は禁止しない」を引用されて、「人間は近親相姦を犯しがちであるから、インセスト・タブーが生まれた」という仮説の根拠とされている。だが、このフレーザーの有名な発言が誤りであることは、つとにウエスターマークが親殺しや獣姦を例に挙げて指摘したことであるし、わが国では今西錦司(1961)も指摘している。たとえば、尊属殺人はめったに起こらないことであるが、法律で厳罰にしている国は多い。これは、めったに起こらないことであっても、起こったら都合が悪いから禁止しているのである。なお、ここでは「やらない」というのは、「めったにやらない」、「通常の状況・環境では起こらない」という意味で使っている。
3.ローマ属領下でのエジプトにおけるインセスト
 青木氏は、ローマ属領下でのエジプトでは、兄弟姉妹間などのインセストがよく起こったという例を引き合いに出されたが、これはどれくらい信用できる情報なのであろうか?
 私は、青木氏がもっておられるデータの出典を知らないので、その質についてコメントできるわけではない。しかし、たとえば、「兄妹」と古代の資料に記されている場合、父親・母親を同じくする同胞であることが断定できるのだろうか。あるいは、同胞だとしても、実際に「性交」したという証拠があるのだろうか。おそらく、動物行動学者が動物の交尾を観察するような形での、性交の直接的観察資料は存在しないであろう。古代エジプトのロイヤル・マリッジというのは有名であるが、実際に兄妹が性交したという証拠はほとんどないといわれている(Arens 1986)。
4.インセストの回避は、「世話を受けた方が」おこなうのか?
 山極寿一氏は、霊長類などのインセスト回避の例をレビューして、「インセストの回避は、相互にその対象となる近親者2名のうち、世話を受けた方が担う」という仮説を提唱された。この仮説に対して、私は、「インセストの回避は、メスの方が担う」、という仮説を提案したい。たとえば、母息子間のインセストの回避は、山極説によれば、息子が担うことになるが、私の説では母が担うことになる。これは、妊娠した場合、雌の方がはるかに大きなコストを蒙るからである。
 実際、野生チンパンジーの観察で、兄が妹を強姦しようとして妹の抵抗を受けた例(Goodall, 1986)や、樹上で息子が母親と交尾しようとして、母親に叩き落とされた例(西田、1994)が知られている。
 ただし、おもしろいことに、チンパンジーでは、発情した母親と離乳期の息子(4?5歳)との間の「挿入」は、たいていの母子ペアで起こる。むしろ、ノーマテイブな行動と見た方がよい。これは、母親の注目が離乳期の息子から大人や若者の雄(交尾相手)に移り、心理的衝撃を受け駄々こね行動を示す息子を、母親がなだめる行動である。しかし、息子が若者期になる、つまり精子を作るようになると、交尾は起こらなくなる。
5.インセスト・タブーは普遍的な習慣か?
 多くの文化人類学者は、インセスト・タブーは人類普遍の習慣(ヒューマン・ユニヴァーサル)と考えているようである。そういえるのかどうか、私は疑問をもっている。普遍的なのは、「インセスト回避」なのではなかろうか。たとえば、日本にはインセスト・タブーがあると言えるのだろうか? 存否は、一に定義にかかっている。日本では、インセストを犯した人が自殺したり、逮捕されたり、村八分にあうだろうか? なんらかの罰を受けるだろうか? 私は実例を知らないのでなんともいえないが、嘲笑くらいは受けるだろうと思われる。もし、一般から「嘲笑を受ける」ことも罰に含めるなら、日本にもタブーがあるといえるかもしれない。しかし、社会の嘲笑を受けるような行動は、窃盗、万引き、剽窃、姦通、乱交、覗き、などいくらでもあり、それらはタブーとは呼ばれない。私は、インセスト回避は普遍的だが、インセスト・タブーは一部の民族に限られると主張したい。 
6.インセスト・タブーは性交を断念することか?
 インセスト・タブーは性交の「断念」であると、二人の方が言われたが、これは「本来、ヒトは近親者とのセックスを願望している」ということを含意している。願望しているというのは、フロイトのエデイ プス・コンプレックスというアイデアから来ている。このアイデアは、フロイトが精神分析にあたったユダヤ社会に発する病理である。つまり、幼少時に兄弟姉妹を隔離して育てるユダヤの風習により、兄弟姉妹間の間に本来生じるべき性的嫌悪が生まれなかった場合である、と解釈できる(Fox, 1962)。こういった兄弟姉妹を隔離する習慣をもつ民族は、むしろまれである。つまり、フロイトの発言は誤りではなかったが、多くの民族のうちの一部にしか当てはまらないことである。文化人類学では、あいかわらず、フロイトの影響が大きい、と思わずにはいられない。私は、フロイトの精神分析学は正しいことも含んでいるが、大部分は「疑似科学」であると考えている。






参考文献
Arens W 1986. The Original Sin: Incest and Its Meaning. Oxford University Press, Oxford. Fox R 1962. Sibling incest. British J Sociol 13:128-150.
Goodall J 1986. The Chimpanzees of Gombe. Harvard University Press, Cambridge, Mass.
今西錦司 1961. 人間家族の起源、『民族学研究』25:119-138.
McCabe J 1983. FBD marriage: Further support for the Westermarck hypothesis of the incest taboo? Am Anthrop 85:50-69.
西田利貞 1994. 『チンパンジーおもしろ観察記』、紀伊国屋書店
西田利貞1999.『人間性はどこから来たか』、京都大学学術出版会
Westermarck E 1922. The History of Human Marriage. Allerton, New York.


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