「お産椅子」と身体技法
長谷川 まゆ帆(東京大・大学院・総合文化研究科)



 本シンポジウムでは、サルやヒトの産み方について、異なる専門領域の報告をつきあわせて、身体の処し方や身体間の関係、文化や文明の成り立ちなどから、広く議論することが求められていた。筆者は、その中でも歴史人類学の立場から、ヒトの過去のお産について、とくに近世期のヨーロッパに広く流布していた「お産椅子」という特殊な道具をとりあげ、お産における身体技法の変化について報告をした。筆者の報告に先立って、現役の助産婦さんでもある鈴木琴子さんからの現代日本の人間の出産についての生々しい報告や、松林清和さんや明和政子さんによるサルやチンパンジーのお産時の行動や母子関係についての興味深い調査報告、猿人から人類への骨の進化と産み方に関する中務真人さんの綿密な報告があり、全体を概観してみると、内容は想像以上の広がりをもつものとなった。振り返ってみると、 「分娩」というある意味では狭く限定された現象を題材にしながら、これほどにも異なる専門領域の研究者が集まり、討論を行う機会が得られたことは、それ自体まことに稀有なことであり、貴重な時間であったと思う。また人間だけを念頭にヒトのお産の歴史を考えてきた筆者にとっては、猿人からの進化史や霊長類全体の中での視座を与えられたことは、大きな収穫であった。

 以下では、シンポジウム当日に得られた知見や示唆、新たな問いなどをも念頭におきながら、また報告の中で盛り込めなかったことも補足しながら、筆者の報告の内容を、あらためてご紹介しておこう。



 人間のお産のあり方は、「分娩」という一点をとらえても、その姿勢や人との関わり、身体の処し方、心性において、過去から現在までずっと同じではなく、変化し続けてきたと言える。それは物質や道具が介在し、利用されてきたからであり、道具を用いる動機が何であれ、それとは別に、作られた道具が逆に人間の行動や意識の在り方を規定し、変えてきたからでもある。ここで紹介する「お産椅子」もそうした道具の一つである。「お産椅子」はルネッサンス期以降、数百年にわたってフランスやドイツ、イタリアやイギリスなど西ヨーロッパ全土に普及し、目に見えない深層部で静かに人々の意識や身体技法を変えてきた。「お産椅子」が生み出される以前には、「お産椅子」を用いないお産があり、「お産椅子」はもともと既存の身体を代替するものとして考案され、人間の身体を模倣しつつ編み出された。しかし「お産椅子」は、ひとたび生み出されると、今度はたんなる身体の代替物であるだけではなく、逆に道具の側から人間の身体の処し方を規定し、身体そのものに影響を及ぼしていく。その結果、以前には予期しなかったような姿勢、処し方、感情が創造され、使う者が意識するしないにかかわらず、それまでとは異なる所作や人と人との絆、関わりが引き出されていくのである。以下では、このような基本的なコンセプトのもとに、「お産椅子」を紹介し、その身体に与えた影響をみていく。

I.「お産椅子」とは?

 まず現存する「お産椅子」を見てみよう。アルザス地方のストラスブールにある民俗学博物館には図@Aのような「お産椅子」が展示されている。@の椅子は、背もたれに花の彫刻が施され、年代とイニシャルが記されていて、19世紀前半に用いられていたものであることがわかる。Bはアルザスの北部に位置するブクスビレールの公立の博物館に展示されていたもので、地味だが木彫りのデザインに装飾性が見られる。Cはアルザスの南部アルトキルシュの産科医が自宅医院の玄関フロアにインテリアとして飾っていたもので、革張りのどっしりとした高級感のある椅子である。Dは同じくアルザス南部のフェレットにあるもので、これも革張り。Eはコルマールのパスツール病院の倉庫にしまわれていたものであるが、これは装飾性がいっさいなく、とにかく重い。わたしがアルザスの民俗学博物館の中で初めて@に出会ったとき、それは、かつての農民の家屋を移築した古い民家の一室に、アルザスの富裕農民たちが所有していた家具やベット、たん笥、セラミック製のストーブ、ゆりかごや歩行器などと並べられていた。陳列のコンセプトは明瞭で、「お産椅子」は「失われた伝統社会の民具」という枠組みの中に埋め込まれていたのである。
図1 図2
図3 図4
図5 図6

 しかし、この椅子を仔細に検討してみると、その性格はそれほど単純なものではないことがわかる。椅子に腰かけて産むというその姿勢は、上体を起こして行う出産を想定したものであり、仰臥の姿勢をよしとしてきた近代のお産姿勢に比べると、立産や坐産が一般的であった、より古い時代のお産姿勢に属し、前近代の面影を残しているようにもみえる。しかし、これらの椅子はむしろ、お産が近代に向かって変化していくその過渡期に生み出されたものであり、お産の近代化を推進した道具でもある。「お産椅子」は過渡期の産物であり、身体の近代化/文明化にむけて人々の心身に働きかけ、変えていくという役割をはたしたのであり、その役目を終えた後に無用となり、やがて姿を消していったものなのである。

 文献上、「お産椅子」についての記述が現れるのは、ギリシャ、ローマの時代のことで、古代〜中世を通じてお産のための椅子はあったし、用いるヒトは存在した。しかし、中世までの「お産椅子」はそのフォルムがはっきりせず、地域や時代によってまちまちであったと考えられる。それが近世期になって、とくに15世紀以降の印刷術の普及に伴い、特定のフォルムの「お産椅子」が書物の普及とともに広範囲の地域に伝達され、似たような形の「お産椅子」が用いられるようになっていった。しかし図FGHIJにみるように、16世紀の医学書や薬剤師の書物にみられる「お産椅子」の挿絵は、現存する「お産椅子」のフォルムとはかなり趣が異なっている。
図7 図8
図9 図10
図11

II.文献上の「お産椅子」と現存するものとの比較 

 現存する「お産椅子」もそれぞれに若干形が異なり、個性があり、決して一様ではないが、共通する特徴をあげると、以下のように言える。

 (1)腰掛の板が鞍型にくりぬかれている
 (2)傾斜のほとんどないほぼ垂直の背もたれ
 (3)肘掛があり、その先に握り棒がついている
 (4)組みはずし、折りたたむことができる
 (5)程度の差はあれ、装飾的配慮が施されている

 現存する「お産椅子」は主に19世紀前半以降のものであり、先に述べた15〜16世紀の文献上の「お産椅子」との間には、いくつかの点で違いがみられる。これは「お産椅子」が近世期の数百年の間に改良を重ね、変化してきた結果である。そこで16世紀の挿絵に現れる図F〜Jと現存する図@〜Eを比較し、その両者の間にどのような変化が起こったのかを見てみよう。これらのフォルムの変化を通じて、道具の改良の過程で人々が道具に何を期待し、何を求めていたか、またその結果、身体から何が引き出されていったかを垣間みることができるからである。

(1)腰掛けの切り込み、空隙   
 Fは16世紀に印刷本になったサボナローラの医学書に挿入されていたものであるが、そこにある切り込みはほぼV字型である。GHの椅子はU字型。一方残存する椅子の切り込みは、それよりも複雑なサドル型になっている。これは身体のラインに沿った改良の跡である。サドル型にすることで、板にのる大腿部の面積が多くなり、身体をより安定して椅子にゆだねることができる。坐り心地がよく、以前のものより長時間腰掛けることが可能になる。切り込みの改良は身体をよりよく支えるのに有効な方向へと行われてきたと考えられる。

(2)傾斜のない垂直の背もたれ  
 ここでも同様の変化がみられる。傾斜の角度そのものはそれほど変わっていないが、変わったのは背の高さである。背ははるかに高くなっている。以前には、背は腰上程度にすぎず、図IJに示されているように、椅子の背後や両側には常に誰か他者の支えが必要であったが、現存するものは、背が高いので産婦がすっかり身体を預け、もたれかかることができ、基本的に他者の助けを必要としていない。背の高さは、産婦の身体を支えるために高められたが、同時に他者の支えを不要にしあるいは軽減する方向へと向かった。

(3)肘掛けと握り棒
 これらは16世紀の「お産椅子」にはなかったものである。残存する「お産椅子」の肘掛は、産婦が座って腕をまげたときに、ちょうど腕に沿うような高さにあり、曲げた腕の重みを椅子にあずけることを可能にしている。垂直につきたてられた握り棒は、産婦がそれを握り締めたり、しがみついたりするためにわざわざ設けられたものである。いきむときに力がいれられるようにと考案されたものでもある。一方、16世紀の「お産椅子」には肘掛や握り棒はないが、よくみると簡単な引っ掛けが両脇にあり、産婦は腕をおろした状態でその引っ掛けに手をかけることができる。一見素朴ではあるが、どちらが力をこめやすいかというと、むしろ16世紀のものの方が垂直方向での力を引き出しやすい。改良は身体に添うかたちで表層的な快適さが追求される形で行われたが、それが必ずしもお産の身体に有効であったわけではない。

(4)組みはずし、折りたたみ式
 現存する「お産椅子」はどれも蝶番やはめこみ式の部分からなり、簡単に組み立てたりばらばらにし、持ち運んだり、しまっておくことができるようになっている。とくに@はある産婆が所有していたもので、小さくできポータブルであることが特徴である。他の一見重々しい椅子も、折り曲げ、組みはずせば、狭い倉庫や屋根裏部屋の片隅に収納することができる。これは「お産椅子」が普段から居間や寝室に置かれていたものではなく、特別な日に、すなわちお産の日にもたらされ、お産がすむと片付けられ、視界から遠ざけられていたことを意味する。アルザスの農村では、村が共同で所有し、出産が近づくとそれを村の倉庫から産婦の家に運んだという。「お産椅子」は黒い布がかけられ、祈りや祈祷による行列がそれに続いた。結婚や出産が聖化され重要な出来事として意味付けられていく時代に、「お産椅子」はそのシンボルとして位置付けられ、単なる道具以上の意味を付与されていたからである。このような意味付けは、16世紀の椅子にはまだなかった。

(5)装飾性
 残存する「お産椅子」はEの病院の倉庫にあったものを除くと、精粗の差はあれ、どれも一定の装飾性を付与されている。道具としての機能性だけからは説明できない象徴性がそこに付与されている。すなわち子供の誕生と言う聖なる瞬間に介在する特別の道具として、その椅子には視覚的な美しさが求められていたのである。こうした意味はまだ16世紀のお産には求められていない。

 以上の(1)〜(5)以外にも一部のお産椅子に共通する点がある。たとえばDやEには足台がついていて、これも身体に沿った改良の例としてみることができる。だが足を前にむけて踏ん張るという所作は、15〜16世紀の椅子には想定されていない。また、この変化もお産の身体に沿うもののように見えながら、実際には、垂直方向の力は分散してしまう。握り棒を握って脚を前に踏ん張る姿を想像してみよう。そうすればお産に必要な力はかえって弱まってしまうのがわかるだろう。また@ABが以前にはクッションを必要としていた簡単な椅子であったのに対し、CDでは背が革張りになっていて、クッションを取り替えることすら必要としなくなっている。クッションの汚れを気遣い、クッションをとりかえる人々の手間が削減されていったのである。かつて産婦のまわりには、直接身体を支えている人々だけでなく、たくさんの人間が手を差し伸べ、気遣い、見守っていたのであるが、「「お産椅子」」はそうした人々の労力に変わる道具として出現し近世期の数百年の間に、徐々に他者の労力を省く方向へと進化していったと考えられる。

III.「お産椅子」が構成していく身体

 かくして「お産椅子」は、身体の道具への依存度を増大させ、身体の動きを一定の枠組みの中に囲い込み、周囲の人間の労力を不要にしていく方向に変化してきた。しかし道具はけっして、完全な意味で、人間の代替物とはなりえなかった。人間の手はたんに物理的な力を提供するだけの道具ではなかったからである。報告の中では、この点について詳しく触れることができなかったが、人間の手は物理的な力を提供するだけでなく、意志をもって相手に差し伸べられるもう一つの身体であり、そこに道具との決定的な違いがある。産婦に差し出されているのは単に力なのではなく、痛みを感じ取り、励まし、支え、声をかけ、声にならない熱や波動を送り届けようとする手であり、産婦の側から発信される心の波動に耳を澄まし、応答しようとする手なのである。これは外部からの一方向的な働きかけではない。産婦の側からの虚しい呼びかけでもない。声にならない声を聞く、求める身体の間の相互性の契機ともなりえる手であり、身体なのである。産婦の側に生じていることに繊細な注意を払い、見えないものを思い描き、それに答えようとする人格をもった手。一方、道具はどんなに便利で快適そうに見えても、物理的な力を提供するものでしかなく、その力も道具の側の限界に一方的に規定されたものであり、問えど答えぬ冷たい物質にすぎない。そこには身体と身体の間の熱や気の交換、対話や相互的な共感、やすらぎは成立しない。

IV.「お産椅子」に先立つ身体

 報告では、19世紀の人類学者がスケッチしたアフリカのいくつかの部族のお産姿勢やフランスの18世紀に残された記述から再現した「お産椅子」を用いないお産姿勢を紹介した。それらのデッサンは、かつての出産がみな背後から人に支えられたり、簡単なありあわせの家具などを用いて行われていたことを示しており、どれもみな、上体を起こした姿勢で、すなわち坐産であれ立産であれ、地面にたいして身体が垂直であるような姿勢をとって出産が行われていたことを示唆している。(ここでは図を省略する。)

V.「お産椅子」の象徴性

 「お産椅子」は、教会による洗礼の徹底や婚姻の聖化とも結びつき、あるいはまたカトリックを擁護する内科医などの推奨する道具でもあり、そのもちえた意味や象徴性は単純ではなかった。オランダなどでは、婚姻に際して花嫁が持参する婚資のひとつにもなっていたし、一定の地域では、村や町がこの椅子を購入し、公共的な道具として利用するようにもなった。教会の倉庫や村の寄り合い所に保管された「お産椅子」は、お産が近づくと、黒い布をかけられ、荷車にのせられて産婦の家に運ばれたが、その移動に際しては、祝詞や祈祷が伴っていた。「お産椅子」は医学書などでも推奨されていたが、それだけでなく、宗教上の意味もこめられ、よりよいお産のあり方を象徴する「卓越化(ディスタンクシオン)」の契機にもなった。「改良」が分娩にとってよいものであったとは限らない。しかしこうした意味付けが共有され、一定の象徴性を帯びるにつれて、この椅子を所有することや利用できることを誇らしく思う産婦もいた。「お産椅子」は「近代性」の象徴であり、一定の地位やステイタスを示す豊かさのシンボルと考えられたからである。

さいごに 〜「お産椅子」から分娩台へ〜

 この「お産椅子」を批判する医学者はすでに17世紀の後半から存在した。それらの声は18世紀から19世紀にかけての産科学の発展分化とともに大きくなり、やがて図Kのような「お産椅子」を改良した分娩台が考案され、流布していくにつれて、徐々に「お産椅子」は衰退していくことになった。図Kはストラスブールの市立病院で助産婦の養成学校を創立したジャン・ジャック・フリートが18世紀に考案した分娩台である。これは「お産椅子」の背を、蝶番によって徐々に傾けていき、最終的には水平になるまで倒すことができるよう改良したものである。フリートは実際、巷に流布していた「お産椅子」からヒントを得てこの台を考案したのである。これによって、産婦の身体は、自ら移動することなく垂直から水平へと移行させられ、ただちに外科的な手術や観察が容易な体位へと置き換えられていった。この分娩台はそもそも難産に対処するためのものであったが、この産婦の身体の垂直姿勢から水平姿勢への移行には、その後、現在へと至るお産の在り方の変化が象徴されている。出産は、近代医学の発展とともに、仰臥姿勢を最良とする臨床医学のまなざしの下に置かれ、道具や技術に委ねられていったからである。産婦の身体の自立性は近代化の過程で徐々に奪われていき、産む身体から産ませられる身体へと移行していったと言える。だが、以上に見てきたように、こうした変化はすでに「お産椅子」の普及によって、ルネッサンスの時代から徐々に準備され、埋め込まれていたのである。
図12




 筆者の報告では、人と人との共同性や道具の使用が大きなポイントになっていたが、今回のシンポジウムでは、そもそも単独でしか産まないサルやチンパンジーのお産の姿が印象的であった。そこから筆者は逆に人間はなぜ単独では産まないのか、という素朴な疑問を抱いた。人間とサルの違いは何かという問題である。だが、その答えの一つは、すでに中務報告の中に述べられていた。中務報告が詳細に解き明かしてくれていたのは、猿人とちがって人間の胎児は、頭蓋骨が大きい分、産道を通過する際に独特の困難があり、胎児は頭をゆっくりと回転させて、頭蓋骨の縫合を若干緩めながら出てこなければならず、サルに比べるとより慎重さを要する構造になっているということであった。人間のお産が他の固体のケアや協力を必要としてきたのも、こうした進化や骨格の構造と無縁ではないだろう。

 とはいえ人間も同じ霊長類の一種として、単独でも産めないわけではない。以前に目にしたパプア・ニューギニアのあるお産事例では、産婦は出産の前の晩に仲間から離れて、人気のない上流の川べりの小屋にこもり、ひとりでそのときを待つ。いよいよ子供が出てくると、予め削って用意しておいた竹のナイフを火にあぶり、それでへその緒を焼き切る。今回の報告の中で、サルやチンパンジーが群れから離れてお産をするのは、お産の匂いが敵にもれ、群れの居場所がばれて、群れが襲撃されるのを防ぐためであると聞いたが、このパプア・ニューギニアの事例はまさに、群れから離れて単独で産む点で、サルやチンパンジーのお産に近い。しかしこれは現代ではやはり例外的な慣習であろう。同じパプア・ニューギニアでも別の部族の場合を見ると、大勢の女たちがお産に立会っている。産婦は立っていて、両脇から肩や背を複数の女たちに支えられていた。人間はひとりで産むこともできるが、にもかかわらず人間は、大部分の文化において、単独でよりも協力し合い支えあいながら共同して産む方向へと進化してきたのである。その理由は、脳の大きさ、頭蓋骨の形の違いだけではなく、風土や労働のあり方、群れの作り方、家族や個体間の関係性のちがいにもあるのではないだろうか。

参考文献
長谷川博子(まゆ帆)「家具/道具と身体――<お産椅子>の歴史から考える――」『岩波講座 文化人類学 第3巻 <もの>の人間世界』(岩波書店 1997年)、pp.72-107.




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