はじめに
河合 香吏(東京外大・アジア・アフリカ言語文化研究所)



 現代の人間社会において、出産はさまざまな文脈から意味付与された「出産という出来事」として経験されているといってよい。ヒトの出産は多次元にわたる現象であり、これにかかわる研究分野も医学、生理学、心理学、社会学(フェミニズムを含む)、法や制度、医療、技術、そして霊長類学や文化人類学などをふくむ多岐にわたり、その視点やアプローチもきわめて多彩である。「出産」は、これを材料としてさまざまな分野に議論をひろげることが可能な学際的な領域でもある。

 本シンポジウムでは、出産という広大な領域から「分娩」に的をしぼった。個(体)に起きる生物学的ないし身体的な現象である分娩は、いかにして 「出産という出来事」となる(なった)のか--形質人類学、霊長類学(獣医学および心理学)、人類生態・保健学、歴史人類学という5つの分野から話題提供をいただき、進化と歴史をともに視野にいれながら、「分娩と出産のあいだ」を考えたい。

 出産をめぐる言説はちまたに氾濫している。新聞やニュースに特集が組まれ、出産(育児)の専門誌も数多く出版されている。「出産」はきわめてジャーナリスティックな話題でもある。そして、そうであるがゆえに、イデオロギーに絡めとられてしまう危険と背中あわせであることには意識的でなければならない。現在日本では、病院や助産院などの施設出産が全体の99%を占めているという。その多くは現代医療に与する産科医にゆだねられているが、いっぽうでは画一的な病院出産への疑問から、近年、助産院を中心に出産の多様化の動きも活発であり、自宅分娩をふくむ「自然出産」への回帰、ないし再評価として話題になっている。それは、本来そなわった能力として出産をとらえなおそうとするものであり、管理され、「産ませてもらう」身体と化している病院出産に対して、産婦本人がそのありかたを自ら選ぶことができるといった「主体性の復権」においても意義がある。

 注目すべきことは、この動きのなかに確固として見いだされる「自然=よいこと」という信念である。病院の分娩台出産における仰臥姿勢は、介助(産科医療)側の便宜を優先したものであり、分娩異常の際に迅速、適切な処置を施すために発達した「制度」であるという。この姿勢は、産婦の身体にとっては「産みおとす」のではなく、重力に逆らって「産みあげる」ことを要請するものであり、母体によけいな負担をかける「不自然」な分娩法であるということができるかもしれない。助産院で自然分娩に臨んだ産婦からは、「自ら(の力で薬や機械によるのではなく)産んだ」といったことばとともに、きまって「自然なお産がいい」という言説がくりかえされる。だが、「自然な出産」とはそもそも何なのか。「自然がよい」というときの「自然」とはいったい何を意味しているのだろうか。

 われわれヒトは進化の産物としての身体と精神をもっている。この前提にいまいちど立ち戻りたい。進化の過程で人類が抱えもつことになった形質的、生理的な基盤をふまえ、そして、これに向き合い、対処・実践するなかにはぐまれた知識と技術、言語と行為による意味付与といった文化的過程の歴史をともなう身体的現実として、「分娩」を問い直してみたい。そうした作業をとおして、はじめて「自然な出産」も実質的な意味内容をもつものとして、人間性の探究をめざす人類学の議論の俎上にのせられるのではないか。「分娩」をその身体性、社会性、歴史性といった異なる、けれどもつよく関連しあういくつかの側面からとらえつつ、人類がもつにいたった「出産という出来事」を議論できる場になればと思う。




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