霊長類における把握能力の獲得:手の構造特徴と樹上性行動との関連
江木 直子(京都大学大学院理学研究科)



 霊長類の手足には母指の対向性,中手骨に対して長い指骨,平爪の保持,指球・掌球の発達といった他の哺乳類には一般的ではない特徴がある。これらは,把握行動や樹上生活への適応と関連づけて考えられてきた。この発表では,化石記録にもとづき霊長類での手の形態の起源をたどり,他の哺乳類との比較から示唆される霊長類の手構造の機能的意義を概観する。

  現生の霊長類には様々な手の形態が見られるが,霊長類の手の形や把握性がどのような状態から出発したかを考えるうえで,化石記録は重要である。もっとも古い霊長類は後期暁新世(61〜55百万年前)に出現するが,この少し前に霊長類の姉妹群と考えられているプレジアダピス類が現れる。この動物では,手長の中での中手骨の割合が小さくなり,第I指が他の指に対して大きな角度をなすという手の構造を持つ種が見つかっている。プレジアダピス類の中でも,このような種では把握が可能だったと考えられている。現代型霊長類でもっとも古い手の化石は,中期始新世(49〜37百万年前)にいたアダピス類のものである。末節骨の形態から,この時点で平爪は存在したが,甲平方向に厚みのある鉤爪に近い形のものだったことがわかっている。第I指近位部関節の形状から,母指対向能力があったことが推定されている。霊長類は大きく曲鼻猿と直鼻猿という二つのグループに分類されるが,アダピス類の手は,指間角度が大きく,手の主軸が人差し指を通る傾向にあり,中手骨が相対的に非常に短いという点で,現生曲鼻猿類の手の構造に似ている。これは,アダピス類を曲鼻猿類に含めるという系統分類とも合致し,また,曲鼻猿と直鼻猿の間には,その歴史の初期の段階から,手の形態に差があったことを示す。アダピス類以外で古い霊長類としては,直鼻猿類に含められるオモミス類が存在したが,手骨では末節骨しか見つかっていない。直鼻猿類には真猿類も含まれるが,比較的完全な真猿類の手の化石は中新世になるまで見つかっていない。曲鼻猿類の手に比べると,真猿類の手では,指骨/中手骨長比率が低く,指間角度が小さく,中軸性が強い。この点で,真猿類の手は他の哺乳類に見られる形態により近い。

  平爪を初めとした霊長類に独特な特徴は,1960年代頃までは,霊長類の高度な樹上性適応と関連づけて考えられてきた(“arboreal theory”)。霊長類以外でも樹上性行動を行う哺乳類は8目にわたるが,いずれも鉤爪を持っている。リスのような樹上性の強い哺乳類と霊長類とを比較したところ,鉤爪を持った動物が,霊長類と同等に枝の末部まで移動することが可能であることが確認された。また,力学的なモデルを使った検討からは,半径の大きな円筒型支持基体や垂直面のしがみつきについて,把握による樹上移動が鉤爪を用いたものに比べて,機能的に優っているわけではないことが指摘された。したがって,霊長類の把握能力の獲得や形態特徴の意義は,樹上性適応という言葉だけでは説明できない。

 “arboreal theory”に替わって提唱されたのが“visual predation theory”や“angiosperm theory”である。これらの説では,霊長類の特徴を樹上生活の中での特定の行動と関連付けようとした。霊長類での把握能力の獲得については,採食の際に片方の前肢を使って食物を掴むことと枝の末部でも他の肢で体を安定に支えることに適しているためと説明された。手で把握を行える哺乳類は霊長類以外にも有袋類・ツパイ目・食肉目・げっ歯目に知られているが,げっ歯類を例外としていずれの種も樹上性の程度が高い。上述した把握能力と樹上性行動との相関は,これらの哺乳類でも見られる。手の把握能力を持つ樹上性哺乳類では,中手骨に対して基節骨・中節骨が長い。これは,この構造が,細い枝を掴むために必要不可欠であるためとメカニカル・モデルから説明されている。

  霊長類の進化史の中で,中手骨と指骨長さの比率の変化は,平爪化や母指の対向などの他の手形態の変化に先立って現れた。中手骨と指骨長さの比率の変化が起こった時点で,把握が可能になったと推定されるため,霊長類の把握能力が獲得されたのは約5500万年前のプレジアダピス類の段階であったと考えられる。




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