歯の磨耗の過去と現在−進化医学からみた私たちの歯列
海部陽介(国立科学博物館人類研究部)



 咬耗とは、端的に言えば歯が磨り減ることです。咬耗が生じる原因は、歯と歯どうしがすり合う、食物などが歯とすり合う、そして歯が化学的に溶解する、の3つに分けられています。3つのうちのどれが主因かは、状況によって異なります。

 陸上に暮らす野生哺乳動物の間では、咬耗は普遍的な現象です。そして人間においても、文明が発達する以前の時代はそうでした。つまり、数千年前以前には、どの人間社会でも激しい咬耗がふつうにみられ、中高年になるころには、誰の歯も、平らになるまで磨り減っていました。

 昔の人の咬耗を調べることによって、様々なことがわかります。人類学的な関心事項としては、各時代の咬耗量と生業との関連、微細な咬耗パターンの解析による古代人の食物の推定などがあります。ここでは、祖先たちの咬耗した歯列と、現代人の咬耗しない歯列の違いについて検討し、咬耗量が時代を追って減少したことが、私たちの歯列の健康にどのような影響を与えているか、という医学的テーマを取り上げます。

 食物や調理法が変化したことにより、現代では、歯ぎしりなど病的なケースを除けば、激しく咬耗した歯列を見ることはまずありません。こうした現代人にとっては、先史時代の人々の激しい咬耗は異常としか思われないかもしれませんが、先史時代の状況は逆でした。歯が磨り減るということは歯のサイズが縮小することですから、咬耗は歯列の形状や咬み合わせに大きく影響します。このことに注目して、「人類は本来、激しい咬耗が生じる環境に適応しているのだ」「激しく咬耗した歯列こそ人間にとって正常な歯列なのだ」「咬耗しない現代人の歯列はむしろ異常で、咬耗しないことが歯列不正などの原因になっている」と考えたオーストラリアの矯正歯科医がいました。1950年代のことです。彼は、現代人における歯列不正を予防する目的で、歯を人工的に削る治療法まで提案しました。

 この考え方は正しいのでしょうか、それとも何かが間違っているのでしょうか? 現在までに公表されている様々な観察事実や実験結果を統合し、進化適応という視点を織り込みながら、咬耗と歯列の健康について解説します。結論として、人類が咬耗する環境に適応していることは、どうやら疑いのない事実です。しかし現代人における咬耗量の減少が、実際にどのような健康上の問題を生じているかについては、もう少しじっくり検討する必要がありそうです。





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