快楽の構造、ふたたび
棚橋 訓(首都大学東京)



 『快楽(けらく)の構造』(中央公論社、1985年)において大島清は、脳生理学的な知見をピボットにしながら、快楽の構造を、精神と肉体をつなぐ「かけ橋」の「からくり」と捉えた。そして、人間の快楽の構造が、原初的な本能から派生し固定した三大本能(=性欲、食欲、群れる)が満たされる状態としての「快」と、それが満たされない状態としての「不快」の対比において示され、三大本能のそれぞれが満たされることが快楽と規定された。と同時に、大島は「本能遂行の快楽とは別に、本能否定の快楽」が存在することに目を向けた。そして、生理的な快楽を超えて広く幸(さち)を求めるような、精神と肉体をつなぐ「からくり」のうち、肉体よりも精神のありようを強調するような快楽の次元を指して快楽(けらく)と呼び、人間の快楽の構造の重層的で二律背反的な性格を指摘した。本能遂行の過程が「快楽の発現のメカニズム」であれば、本能否定の過程である快楽(けらく)は「快楽をそこなうメカニズム」(=快楽を棄てることによって発生する快楽)となる。

 今でも人間のセクシュアリティをめぐる議論では、「正常」と「異常」のカテゴリー化は揺るぎない位置を保っているが、これを大島の用語と重ねれば、「正常」=「本能遂行の快楽」、「異常」=「本能否定の快楽」の図式が描かれる。後者は「性倒錯」(sexual perversion)とも表現され周辺化されてきたが、Milton Diamondの提言以降、「ちょっと脇に逸れた好み」を意味し、それゆえに人間が自分の意思で選択した行為を指し示すパラフィリア(paraphilias)の表現が定着している。

 パラフィリアの地平を確認するために、サルのセクシュアリティをヒトとの比較=進化行動学的視点から総論したAlan F. Dixon, Primate Sexuality(Oxford U.P., 1998)に目を落とすと、"Abnormal sexual preference: the human paraphilias"の節に'The paraphilias are of theoretical importance because they pose questions about the development of normal human erotosexual preferences'との認識が示されている。つまり、霊長類のセクシュアリティの進化行動学的な理論化を図る際、ヒトが「ちょっと脇に逸れた好み」に基づいて「選択」した「異常」な「本能否定の快楽」の存在に着目し、その「快楽をそこなうメカニズム」がいかに成立したのかを問うことに鍵があるというわけだ。

 本発表では、大島や比較=進化行動学の議論を手がかりに、人間の快楽の構造について思考する鍵は「快楽をそこなうメカニズム」にこそあるという前提を得て、このパラフィリアという対象とその研究が有する意義についての私見を示したいと考えている。パラフィリアと言っても、通例そこに分類される行為・行動は、coprolagnia、exhibitionism、fetishism、frottage、gerontophilia、lust murder、 masochism、necrophilia、 paedophilia、rape、self-strangulation、sadism、scoptophilia、urophilia、zoophiliaなどなど、多岐膨大である。そこで、今回はフェティシズムの問題に焦点を絞る。Jean Baudrillardが『物の体系』に示した議論を手がかりに、フェティシズムを、身体をパーツに解体して自分のモノとして処理し、そのモノを非連続的な性質のシリーズに再編・統合して(=シリーズに分解して)所有する過程と仮に捉える。フェティシズムは極めて男性優位の現象だという。そこには快楽において想定される明確な到達点はない。むしろ、はなから到達点を拒否していると言うべきか。しかし、ひとたび、シリーズ的なモノの再編・統合の過程に入ると、到着点=全体性が見い出せないことに、失望が繰り返される。そして、快楽の欠落は(性行動の)反復や(性行動の相手の)増加を通じた性行動そのもののフェティッシュ化によって補填されていく。そこには快楽とは相容れない「シリーズ的」な「満足」が大きな位置を占めていくことになる。つまり、ここでは、快楽の概念は、人間のセクシュアリティの特質を全く示しえないものとなっているのではなかろうか。快楽の追究に性の進化学の極点を求めるのではなく、脱快楽、あるいは快楽(けらく)の思考に性の進化学の可能性を求めるべきなのではなかろうか。





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