言語の脳進化:ワーキングメモリ進化の観点から
澤口俊之(北海道大・文)



 最初にお断りしておかなければいけませんが、脳科学は他個体との関係を解明するまで至っていません。まだ個体ごとの働きを調べるという段階で、コミュニケーションや社会関係などの脳科学は、まだまだこれから発展する分野です。ここでは、ある程度の方向性、どういうことがあり得るのかということを述べたいと思います。

 脳のレベルから言語を含めたコミュニケーションの脳進化を考えていく際に、まず、大脳新皮質というものがどういう構造をもっているのかということを押さえる必要があります。次に、自然淘汰によってコミュニケーションが進化してきたわけですから、脳進化の進化要因を押さえないといけません。そして、最近研究が進んでいるワーキングメモリという認知機能が、どうやらコミュニケーションの中心にあるのではないかと考えると、今後コミュニケーションの脳進化研究が進むのではないかという考え方を紹介します。特に3番目に注目して進めたいと思いますが、そのときのキーコンセプトは、道具使用と言語使用というのは、脳レベルでは非常に似ているということです。

 脳の中には機能的、構造的、さらには分子的にもきちんと分けられる「領野」という区画があります。その区画は、それぞれ違った働きをしておりまして、それらが多数集まって階層構造をつくっています。そしてその区画にコラム構造というのがあります。大脳新皮質に注目しますと、コラムがつくる領野が階層ネットワーク構造をつくっていることになります。これは現代の脳科学の前提です。

 進化の仕方に関しても、おそらくコラムというものが単位となって増えていき、領野が重複して増えたり拡大したりしたのだと考えられています。同時に、階層構造がんどん複雑化していく、あるいは並列的なチャンネルが増えていくというのが基本的な脳の進化です。このとき、どういう正の選択圧が働いていたかというのが問題になりますが、現段階できちんとしたデータでわかっているのは大きく分けて2つしかありません。1つは食性、もう1つは社会構造です。真猿類に話を限って、大きく果実食性と葉食性に分けると、果実食性の方が相対的な脳も大脳新皮質も大きいのです。社会構造に関しては、いわゆる多妻型(polygyny)の真猿類の方が、一妻型(monogyny)より相対的に大きな脳と大脳新皮質をもっています。さらに、群の大きさと相対的な大脳新皮質の大きさには正の相関があります。だからといってこれらが進化要因に直接反映すると考えられませんが、少なくとも大脳のレベルでは、おそらく食性、特に果実食への依存の割合と群の大きさが関係しているだろうと考えられます。脳の進化において現段階でいえることは、社会関係と食性が正の選択圧となって、コラムというものが増えて、結果的に大脳新皮質の階層ネットワークが複雑になっていったということです。

 このようにネットワークが複雑化していくことで、新しい認知機能が生まれました。その一つにワーキングメモリがあります。ワーキングメモリというものは、元々は言語の理解を説明するために出てきたモデル的な機能ですが、それが中心として働くことによって、知覚と短期記憶、そして長期記憶(特に顕在記憶)を組み合わされて適切な答えを出すという働きができるようになるとされています。ワーキングメモリは言語やコミュニケーションの中心的あるいは基礎的な認知機能なわけです。ですから、ワーキングメモリを中心にコミュニケーションを考えていきたいと思います。

 ワーキングメモリの脳内センターは46野という領野で、前頭連合野内にあります。その近くに44、45野があって、ヒトではこれらが運動性言語野、つまりブローカ野に対応するのですが、サルにも44、45野が存在するのだということが分かってきました。しかも、この部分の少し後ろにある部分は非常におもしろい働きをしています。マニピュレーション、さらに道具を使うときにも働くということが従来から知られていたんですが、少なくともヒトでは道具の命名にも関わることがわかったのです。つまり、道具の命名が道具を使うときに活動するような場所で行われているわけです。サルでも、道具使用やマニピュレーションをイメージすると活動するらしいデータが最近得られました。ヒトでもサルでも、道具使用と言語は密接に関係するわけです。

 今まで言語システムに関わるとされてきたのが、ウェルニッケ野とブローカ野でした。ただし、最近ではワーキングメモリの中心をなす46野、10野、さらには47野も関わっていることが明らかになりました。そして、ワーキングメモリは、物を単に命名するなどでは使われないものの、コミュニケーションのような、言葉から何かを連想するとか、比喩を理解するとか、あいての気持ちを言葉で理解するといったような、かなり高度なことに関わります。サルではまだ証拠は不十分ですが、これらのどの領野ももっており、それらはワーキングメモリによる対象のシンボル化とその操作に重要な役割をしているらしいことが分ってきました。

 道具使用も言語の使用も、何かの対象物に関しての情報があってそれを操作することです。そしてワーキングメモリの機能とは、情報を操作、発見していって何かを操作するというものです。ですから、ワーキングメモリが発達することで、対象物を操作する道具使用や他個体を操作するという複雑なコミュニケーションが可能になるのです。進化の過程において、道具使用のときに使われていたワーキングメモリがベースになって、他個体の操作に使われるようなより高度なワーキングメモリが形作られていったのではないかと思います。

 それではワーキングメモリというのは進化的にいつできたのでしょうか。ここではギャラゴとマカク属の比較が有効となります。注目すべきは、ワーキングメモリに最も重要な働きをする46野をギャラゴが欠いているということです。そのためか、ワーキングメモリを必要とする行動課題(たとえば遅延反応)をギャラゴは行えません。こうしたことから、46野の獲得が基本的に我々の持っているコミュニケーションシステム、言語の起源ではないかと思います。ワーキングメモリなくして道具使用もコミュニケーションもできませんから、おそらく真猿類が誕生したときにワーキングメモリができ、それにより社会性が発達してきたのではないかと思います。チンパンジーは明らかに道具使用をしますが、言語はしゃべりません。そういうものが言語使用の方に、たぶん言語による社会関係の複雑化に伴って、ワーキングメモリを介した発話と他個体の操作関係ができてきて、我々の脳ができてきたのではないかと思います。

 我々脳科学者にとっては、運動の制御、あるいは道具使用の制御というものと概念の操作、あるいは言葉の操作というものはほとんど同じです。つまり扱っている単位が運動情報であるか、言葉・コンセプトの情報であるかだけであって、それを操作して目的にあった行動、発言をするということでは、全く同じ脳内システムの原理を使っていると考えるのです。

 これからは真のコミュニケーションにのっとったようなことをきちんと調べていく研究が必要だと思いますが、そのときには前頭連合野を中心としたワーキングメモリに注目しながら行っていけば、コミュニケーションの脳内機構がもう少しわかっていくのではないでしょうか。そうすれば脳科学者と生態学者との接点が、もう少しでてくるのではないかと思います。




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