音声言語と発声器官の進化
竹本浩典(京大・理・自然人類)



 会話は、受け手と話し手が音声波のやりとりを通じて、交互に立場を入れ替えること によって成り立っている。受け手は音声波を聴覚器官で受聴して音声を知覚する。次 に内容に関する心的な過程、すなわち記憶の参照や推論などを行う。そして受け手は 話し手に立場を変え、話す内容を決定すると、脳から運動指令が出て発声器官を動か し、音声が生成される。この音声波が空間を伝播して、先程まで話し手だった相手が 受け手へと立場を変えて受聴する。この繰り返しによって音声によるコミュニケーショ ンが行われる。このように、音声言語によるコミュニケーションは、多くの物理的、 生物的な要素によって成り立っているため、一口に音声言語の研究といっても、どの 部分に注目して研究を行うかによってたくさんのアプローチの仕方がある。私が研究 を行っているのは発声器官、すなわち音声を生成するハードウェアそのものの、形態 についてである。

 音声言語研究において、発声器官の形態を研究する一般的な目的は、その形態と音声 との関係を明らかにすることである。発声器官の形態的特徴が、生成される音声にど のような影響を与えるのかを明らかにすることである。このような知見を多く集める と、発声器官の形状が与えられれば、どのような音声を生成できるか―構音能力―を ある程度の確度をもって、推測することができるようになると考えられる。このよう な知見を、化石人類に適用すれば、彼らは一体どのような音声を生成することができ たのかを推測することが可能である。私の研究の最終的な目的は、化石人類は進化の どの段階で我々と同様な構音能力を有するようになったのか、すなわち、ハードウェ アからみた音声言語の起源を探ることである。

 発声器官は単一の器官ではなく、声道−咽頭腔、口腔など喉頭より上部の空間−とい う体腔に面した、多くの器官によって成り立っている。大まかに言って発声器官は、 頭蓋底、頸椎、下顎、歯列などの硬組織の内部に、舌、咽頭、喉頭などほとんどが軟 組織からなる部分が声道という空間を挟んで内接する構造になっている。ヒトでは、 頭蓋底が水平、頸椎がほぼ鉛直なので、発声器官とその声道は咽頭の部分で大きく屈 曲した形状をしている。

 音声そのものは、喉頭の声帯で生成されるが、その多様性は舌によって生み出されて いると言っても過言ではない。音声は、喉頭で生成される音声波が声道を通り抜ける 際に、様々な音響的な修飾を受けて生成される。音響的な修飾は、声道の時間的、空 間的な変化によって起こる。その最大の要素は舌である。舌が様々な形に、素早く変 形することによって、多くの音声が特徴づけられ、生成されている。 音声は音素から成り立っており、音素は大別すると母音と子音に分けられる。母音と は声帯が振動することにより、声道全体が励振し、比較的定常で安定した音色を示す ものである。子音とは、母音以外の全ての音素である。母音は、声帯振動に声道全体 が励振するという点で、子音よりも発声器官全体の形を反映しているといえるので、 発声器官の形態と音声との関係を調べるためには、母音に注目するべきであると考え られる。

 母音は舌の位置により、大きく3つに分類される。舌の前部が隆起し、口腔の前方が 広くなり、後方が狭くなる/i/や/e/は、前舌母音と呼ばれる。対照的に、舌が後方に 持ち上がって、口腔の後方が広くなり前方が狭くなる/a/や/o/は、後舌母音と呼ばれ る。両者の中間的な存在として、舌の中央部分が隆起し、口腔の中央が狭くなる中舌 母音がある。このように舌が多様に変形して、それぞれの母音が発声される。

 一般的に化石人類の発声器官は、チンパンジーに似ていたのではないか、といわれて いる。特に初期人類ではよく似ていたと考えられている。歯や顎の形が違うため、か なり印象は異なるが、頭蓋底の屈曲が弱く、硬口蓋の部分が前後に長い点で両者は似 通っている。そのため、チンパンジーの発声器官の形態と発声される音声について調 べれば、初期人類の構音能力を解明するための重要な知見が得られると考えられる。 "継続的な観察の結果、チンパンジーでは、後舌母音の/a/, /o/、中舌母音の/u/の発 声は観察されるけれども、前舌母音である/i/, /e/の発声は観察されないことが知ら れている。ヒトでは、/i/はsuper vowelとも呼ばれ、どの言語でも普遍的に存在し、 最も弁別しやすく、そのため母音の正規化の指標音に成るとも言われる特殊な母音で ある。このようなヒトの音声言語で重要な役割を持つ母音の発声が、チンパンジーで は観察されないのは、きわめて興味深い。"

 ヒトの幼児では喉頭がかなり下降するまでこの母音を発声できないことから、この母 音が発声できるかどうかは、喉頭の高さと関係していると推測されている。ヒトが/i /を発声している様子を観察すると、舌が変形して口腔の前方が狭くなり、口腔の後 方から咽頭にかけての空間が広くなっている。すなわち、前部が狭く後部が広い声道 形状が、/i/の発声に不可欠である。ヒトでは喉頭が低い位置にあり咽頭が広いため、 このような声道形状をとりやすいと考えられている。一方、チンパンジーでは、舌の 筋構築はヒトと変わらないため、舌が変形する能力もヒトと変わらないと思われるが、 喉頭が高い位置にあり咽頭腔が狭いため、舌を変形させても/i/の発声に必要な後部 の広い声道形状をとることができないのではないか、と考えられている。

 発声器官の形状と発声される音声との関係を明らかにする研究の一環として、母音/i /を発声する際の、舌の変形シミュレーションを行った。まず、ヒトが/i/を発声する 際の舌の変形を正中矢状断面における2次元の有限要素モデルを用いてシミュレート し、そのモデルの形状をチンパンジーのものに変えて同様のシミュレーションを行っ た。どちらのモデルの形状もMRI画像からトレースした。舌の変形に関わる舌筋の収 縮は、接点にかかる荷重の方向と大きさで表現した。方向は、解剖の結果得られた筋 線維の走向に基づいた。また、荷重の大きさは、ヒトが/i/発声時の筋電信号に基づ いた。ヒトが/i/を発声する時には、オトガイ舌筋の後部の収縮が顕著に見られるこ とが明らかになっている。

 シミュレーションの結果、チンパンジーが/i/を発声できないのは、単に喉頭が高い 位置にあり、咽頭腔が狭いことだけが原因ではないことが示唆された。ヒトでは変形 後の舌形状が/i/発声時のMRI画像とかなりよくマッチし、モデルが妥当であることが 明らかになった。一方、チンパンジーでは、ヒトと同様な筋収縮パターンでは、口腔 後部から咽頭にかけて広い空間を作ると同時に口腔の前方に狭い空間を作ることがで きなかった。すなわち、チンパンジーが/i/を発声できないのは、口腔後部を広める ことができないことが原因と言うよりはむしろ、/i/の構音に必要な舌形状をとるこ とができないからである、という結果が得られた。

 チンパンジーがヒトと同様な舌の変形を行うことができない一番の原因は、舌が平た いことである。ヒトは硬口蓋が前後に短く、上方へ深くえぐれており、それに沿って 舌の上面が隆起し、全体としての形は丸い。そのため、/i/を発声する際に最も活動 するオトガイ舌筋の後部が収縮すると、舌の後部が前方に凹むとともに前上方が隆起 する。そのため、口腔の後方から咽頭にかけての空間が広くなると同時に口腔の前方 が狭くなる。ところがチンパンジーは硬口蓋が平たく、また、頭蓋底の屈曲が弱いた め、その形状に従って舌が平らである。そのため、オトガイ舌筋の後部が収縮したと しても、舌が隆起しない。すなわち、ヒトでは舌が丸いので、オトガイ舌筋後部の収 縮が口腔の後部を広めると同時に前部を狭めることができるが、チンパンジーでは舌 が扁平なため、同様の筋収縮を行っても後部が広まると同時には前部が狭くならない のである。

 このシミュレーションによって、舌の形が母音/i/の発声にどのような影響を与える のかが明らかになった。化石人類でも、もし、舌の形状がチンパンジーのように扁平 であったならば、この母音の発声はできなかったであろうと推測される。もちろん、 母音/i/の発声ができなかったからと言って、音声言語を有していなかったとするこ とはできないし、逆に発声が可能であったからと言って、音声言語を有していたと結 論づけることはできない。単に母音一つにすぎないからである。しかし、この母音が 我々の音声言語の中で果たしている重要な役割を考えると、この母音の発声ができな いということは、音声言語を有していたとしても、それは少なくとも我々とずいぶん 異なったものであったと思われる。また、このシミュレーションはあくまで発声器官 の形態が、発声される音声を規定する一つの例を扱ったにすぎず、化石人類の構音能 力を推定するための知見の一つにすぎない。化石人類の音声言語を考えるためには、 より広範な研究が必要である。

 化石人類を対象として、コンピュータ上で発声のシミュレーションを行うことは、原 理的には可能である。発声器官の形状は、頭蓋底、頸椎、下顎などの硬組織によって、 外形を規定されており、舌などの軟組織はそれに内接するように存在している。その ため、化石人類の発声器官を、硬組織を元にして復元し、発声器官の動きを忠実に模 したコンピュータシミュレーションを行えば、化石人類の構音能力を明らかにできる であろう。

 しかし、発声器官の復元にも、コンピュータシミュレーションにも解決しなければな らない多くの問題が山積している。発声器官の復元は、その標本の保存状況に依存す るため、欠損した部位があると、どうしても恣意的に成らざるを得ない。そもそも、 化石人類は非常に古いものであるため、保存状態が悪く、特に重要な頭蓋底の部分の 保存状態は非常に悪い。また、下顎、頸椎なども供伴することはまれである。喉頭の 高さを決定する舌に至っては、骨質が薄いため、これまで比較的新しい時代のものが 1例しか出土していない。しかも、長い間地中にある間に、圧力を受けて、大きくひずんでいることが多い。

 また、化石として残らない軟組織の復元にも大きな問題が存在する。ヒト以外の霊長 類では、一般に喉頭嚢と呼ばれる器官が、舌骨から前頸部、時には胸部にわたって存 在している。特に類人猿では非常に大きい。しかし、この器官の機能は未だに明らか になっていないため、化石人類がこの器官を有していたかどうか判断することができ ない。この器官を有していたかどうかによって、化石人類の発声器官の復元が大きく 異なったものになってしまう。

 発声器官のモデル化とシミュレーションに関しても、数多くの問題がある。この器官 は、口腔、咽頭腔という、体腔に内面した器官であるため、外部から直接観察をする ことができない。そのため、発声器官の動き、機能などに関して、まだまだ未知の部 分が多い。特に発声器官の形態と、発声される音声についての知見は、ようやく集ま り始めたにすぎない。発声器官の動きをシミュレーションするためには、発声器官を 発声のために本質的に重要な部分のみに単純化してモデルを作る必要があるが、その ためには、発声器官と音声との知見がまだまだ不足しており、これからの研究が期待 される。

 化石人類の構音能力を推定するためには、まだまだ多くの問題が存在している。しか し、近年CTやMRIなどの装置がめざましく発達してきており、これまでとは比較にな らないほど発声器官の形態と発声される音声についての知見が集められるようになっ てきた。また、コンピュータ上で破損した骨標本の復元の試みもなされており、こう した分野の研究成果が、化石人類の発声器官の復元にも生かされるようになるであろ う。そして、発声器官の形態と音声についての十分な知見と、できるだけ恣意的な要 素を減らした発声器官の復元に裏打ちされた、化石人類の発声のシミュレーションが 行われることが望まれる。




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