ペプシノゲンの多様性からみたヒト進化における肉食への適応
○成田裕一(名古屋大・生命農)



1.序論

 これまで古生物学および形態学的研究の成果から『肉食への適応』がヒト進化の過程において大きな働きをしたと考えられている。この肉食への適応を可能にする背景には歯や消化器官などの形態的変化だけではなく、消化酵素の変化も必須であると考えられる。しかし、これまでに『肉食への適応』について消化酵素の側からの検討は行われていなかった。

 肉を消化するのに必要なタンパク分解酵素としては胃から分泌されるペプシンが知られている。ペプシンおよびその前駆体であるペプシノゲンについては様々な動物種でよく調べられており、その成分に多様性があることが明らかとなっている。哺乳類の成体に存在するペプシノゲンはA成分とC成分に大別でき、さらに各ペプシノゲン成分内にもアイソザイムが存在する事が知られている。これらの多様なペプシノゲンのほとんどは異なる遺伝子の産物であると考えられており、それらの遺伝子は共通の祖先遺伝子から重複によって増えてきた事が明らかとなっている。

 これまでの解析により霊長類においては新世界ザル、旧世界ザルと分岐が進むにつれて成分の多様化が進んでおり、その傾向はヒトにおいて特に著しいことが明らかになっている。このことはヒトへの進化とペプシノゲン成分の多様化が並行して起こっていることを示唆しており、非常に興味深い。そこで、本研究においては現生の動物種のうちでヒトに最も近縁である類人猿のペプシノゲンの多様性について解析を行い、ヒトの進化過程における肉食への適応についてペプシノゲンの多様性という観点から検討する事を目的とした。


2.材料および方法

 類人猿4種(チンパンジー、ゴリラ、オランウータンおよびテナガザル)の胃粘膜抽出液を調製し、抽出液に含まれる可溶性タンパク量およびプロテアーゼ活性量を測定して、各類人猿における胃粘膜抽出液の比活性値(unit/mg:総プロテアーゼ活性量/総可溶性タンパク量)を算出した。

 続いて胃粘膜中に含まれるペプシノゲン成分をDEAE-Sephacelを用いた陰イオン交換クロマトグラフィーおよびMono Q column HR 5/5を用いたHPLCにより単離し、各ペプシノゲンの成分判別や酵素学的性質について解析を行った。


3.結果および考察

胃粘膜抽出液の比活性値
 各類人猿の胃粘膜抽出液の比活性値はそれぞれ、テナガザルが4.2、オランウータンが6.8、ゴリラが0.53、チンパンジーが0.16であった(図1)。ゴリラとチンパンジーの比活性値が他の2種の値に比べてかなり低くなっていたが、これら2種の動物においては死後、胃を取り出すまでに時間がかかっており、その間にペプシノゲンの活性化および変性が起こってしまったためと考えられた。死後直ちに胃を取り出すことのできたテナガザルとオランウータンについては大まかに見れば同じ様な値をとっていることから、これらの値が類人猿の正常な値に近いものと考えられた。類人猿における比活性値はこれまでに報告のある他の霊長類と同様、哺乳類としては最も高いレベルの値になっていた。

 これまでの研究結果から各哺乳類の胃粘膜抽出液の比活性値と食性との間には相関があり、植物食(単胃)>雑食、昆虫食>肉食、植物食(反芻胃)という傾向があることが明らかになっていた。植物に含まれるフェノール性物質にはペプシンに対する活性阻害効果がある事が知られており、植物を多く摂取する動物ほどペプシンの活性を補わねばならないため比活性の値はこのような順になるものと考えられている。

 この比活性値と食性の相関関係から考えると、類人猿において見られた高い比活性値は類人猿の食物がほとんど植物性のものであることと一致した結果であった。これに対して、ヒトにおける胃粘膜抽出液の比活性値は1.50という報告があり、この値は類人猿において一般的と考えられる値と比べて明らかに低い値である。このことは雑食性の強いヒトの食性を反映したものであると考えられ、この形質はヒトが類人猿と分岐した後に獲得されたものであると考えられる。また、今回の解析においてゴリラとチンパンジーについては、新鮮なサンプルによる結果ではないため、はっきりした考察はできないが、比活性値はゴリラが0.53、チンパンジーが0.16という値を示した。胃粘膜抽出液を調製する際のサンプルに対する印象としては、ゴリラの胃の方がチンパンジーのものと比較してもさらに悪い状態であるように思われた。それにもかかわらず胃粘膜抽出液の比活性値はチンパンジーの方が低くなっていたという結果は、正常な状態でのチンパンジーの胃粘膜抽出液の比活性値がゴリラをはじめとする他の類人猿よりも低く、ヒトに近い値を示す事を示唆しているものと考えられ、類人猿の中でも特にチンパンジーのみが狩りを行うなどして積極的に肉食を行うという、ヒトに最も近い食性になっている事を反映したものである可能性が考えられた。

ペプシノゲン成分の構成
 まず、DEAE-Sephacelによる陰イオン交換クロマトグラフィーにより、胃粘膜抽出液に含まれるペプシノゲン成分を、オランウータンとテナガザルで4つ、ゴリラとチンパンジーで3つのピークに分けることができた(図2)。続いて行ったHPLCにより、各ピークに含まれていたペプシノゲン成分を分離することができ、各類人猿からそれぞれ9分子種(テナガザル)、16分子種(オランウータン)、8分子種(ゴリラ)、14(チンパンジー)分子種のペプシノゲンを同定することができた(図3)。精製の過程は表1に要約して示した。また、ポリアクリルアミドゲル電気泳動の結果(図4)からどの類人猿においてもペプシノゲンC成分は1分子種のみで、他は全てペプシノゲンAであると判別でき、ペプシノゲンAの多様化が顕著であることが明らかになった。これらの類人猿のペプシノゲン成分数はこれまでに報告のあるもののうちで最多であり、ホミノイドの系統が進化してくる過程で何度もペプシノゲンA遺伝子に重複が起こったものと考えられた。これらペプシノゲンAのアイソザイムはアミノ酸組成(表2)や酵素学的性質(図5)の違いによって大きく2つのサブグループに分けることができた。

ヒトにおいて見られていたペプシノゲンの多様化はホミノイドに共通した特徴であることが分かり、肉食への適応に必要な消化酵素側の変化はホミノイドの共通祖先の段階で既に起こっていたものと推測された。また、ホミノイドが多様なペプシノゲンAを持っていることは、食物に含まれるタンパク質を効率よく消化するのに有利であると考えられる。ホミノイドの大きな特徴の一つに大脳の巨大化が上げられるが、大脳の発達や機能維持には、神経伝達物質の前駆体として様々な種類のアミノ酸が大量に必要であることが知られている。ホミノイドは多様なペプシノゲンを獲得した事により、効率よく食物タンパクを消化して様々なアミノ酸を十分に供給する事が可能になったため、大脳の巨大化が可能になったのではないかと考えられる。




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